“Niemandswasser” 訳了。19世紀後半のドイツを舞台に、貴族の青年が失恋の哀しみに耐え切れず自殺を図るが、不可思議な女の幻に妨げられ、南部国境のボーデン湖畔にある古城に引きこもる。だが湖にはどの国の領域にも属さない ‘No Man's Water’(Niemandswasser (ニーマンツヴァッサー)はそのドイツ語形)と呼ばれる水域があって、そこでは様々な怪異が起き、また死を望む者がそこへ船で漕ぎ入れ姿を消すと聞かされ、再び死へと引き寄せられてゆく。‘unheimlich’(不気味な)という有名なフロイトの語彙がドイツ語のまま出て来ることからも分かる通り、シュニッツラー『闇への逃走』などの世紀末的雰囲気とグリム童話を併せたような、エロスとタナトスの織りなす風変わりな怪奇譚。

実は優れた幻想作家でエイクマン紹介・翻訳における重要な訳者の一人でもある西崎憲が雑誌『新潮』2023年8月号に発表した短編「もつれとゆれ」の中に、主人公が「イギリス人の書いた小説、ゴーストストーリー」を読む場面があるのだが、題名こそ書いていないがこれがまさしく “Niemandswasser” を下敷きにしている。以下その箇所を引用する。

  ドイツの湖。
  夕暮れの湖。
  若者はボートで暗い鏡のような湖面をゆっくりすべっていく。
  静穏。
  憂愁。
  左手を湖面に落とす。
  手が水をかきわけて進む。
  心地よい冷たさ。
  微かな感触が指先にあり水から手をあげる。
  第四指と第五指が失くなっている。

 

 


 

拙訳は「不入(いらず)の湖(うみ)」という題名にしてみた。以下上記の該当箇所。エルモは主人公の青年貴族、ヴィクトルは同じく貴族である友人の美青年で、ちょっと女装癖あり。

 

「とある夜、というか早朝に、先述のような条件が揃っていた折り、奇怪な出来事が起きた。エルモが時折ボートを漕ぎ、ヴィクトルは片手を水に漂わせていた。湖のどの辺りだったか正確には分からない。そこがボーデン湖の魅力の一つで、迷ってもむしろ楽しく、危険なことはほとんどない―そのうち必ずどこかに陸地が見えて来て、時にはあっけなく思えるほどだった。だがその夜ないし早朝に限って、危険が思いも寄らぬ悲惨な形で現実のものとなった―ヴィクトルがくつろぎながら水中で緩やかに漂うに任せていた片手が、静寂の只中でいきなり、半分食いちぎられたのだ。薬指と小指がなくなり、医師たちの治療の甲斐もな    く、手の半ばが欠けたままになってしまった―しかもなお悪い事にそれは右手で、詩を書いたりギターを爪弾いたりする方の手だった。さらにこの出来事は精神にもはっきり影響を与えた―その証拠にエルモとヴィクトルは仲違いをしてしまった。」


エイクマンの小説にはあまり流血場面は出て来ないしこれも怪物が人間を殺戮するようなスプラッターホラーとは全く正反対の作品だが、静謐な雰囲気の中にこういうエピソードを何気なく放り込むのも彼のテクニックの一つと言える。