2022年3月14日 伊藤正則「遺言」配信トークショー | ミツのロックなライブレポート

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1980年代のHR/HMファンです。ライブハウスにも出没しています。
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伊藤正則 遺言オンライン配信トークショーを観てみましたー!

「伊藤正則の遺言オンラインスペシャル5」
メタルの重鎮であり音楽評論家 である伊藤正則さんと、メタル専門誌「BURRN!」編集長、広瀬和生さんによるトークショー。オンラインスペシャルは今回で5回目となる。

オミクロン株によるコロナ感染者の増大もあってか今回は完全無観客配信となった。
18時半画面が映し出された。
目の前に誰もいないと寂しいと伊藤さん。コロナ禍の状況から無観客を選択せざるを得なかったようだ。

話題は1990年代の話。グランジへと時代は変革しメタルが衰退していったとはよく言われるがはたしてそうか。
BURRN!の発行部数が最も多かったのは実は1997年であった。
リアルタイムに体験した人と、後に歴史を紐解く人との間には距離感が生じてしまう。
1991年のメタリカ(Black Album)、ガンズ(Use Your Illution)を体験してきたレコード会社のディレクターが、今や定年を迎える時期である。
事実の積み重ねは大事なことで、歴史をきちんと伝承していくべきである。
90年代の初頭にニューメタルにお金をかけていたレコード会社は当時はいなかった。

BURRN!についてはニルヴァーナを最も早く取り上げている。
1992年のイングヴェイのアルバム「Fire&Ice」はオリコンチャート1位だった。
90年代の日本国内においては、いわばメタルバブルの時代だった。BURRN!広告収入は今の5倍。発行部数が最も多かったのが1997年。広瀬さんが94年に編集長になってから3年後のことだ。この頃は世界的にもCDが最も売れていた時代。

90年代中盤以降はイギリス、アメリカにおいてはメタルは過去の産物となり、レコード会社との契約が更新されず行き場を失うバンドもあったが、日本では売れていたということだ。
バブルと言われるようになったのは後の話で、当時は80年代の勢いが日本においては90年代も衰えなかったと言う方が正解かもしれない。

90年代は日本のレコード会社は17社も存在していた。あの当時のレコード会社のお金の使い方は今を思えばバブルだったと思うと。
広瀬さんもレコード会社経費持ちで毎月海外出張に行っていた。
マイケルシェンカーに断りきれない金額を日本のレコード会社が提示した逸話もあったらしい。

未だにBURRN!は昔とやっていることが変わらないとよく言われるが、ニルヴァーナやサウンドガーデン等はグランジブームの前から取り上げている。

ハロウィンもアイアンメイデンも現在においても絶大な支持がある事実をおさえておいてほしい。
メタル隆盛の80年代よりもやはり90年代の方が広告費は潤沢だった。
要因はレコードが80年代後半からCDとなり、90年代にそのCDが売れるピークを迎えた。

80年代の海外取材は基本的に一人で行っていたが、90年代になるとレコード会社も海外取材に同行してくるようになった。
来日公演についても、地方を含めたロングツアーが増え、90年代はその顕著たるやミスター・ビッグであった。
また、ジューダスプリーストの契約の逆転劇の話も興味深かった。
広瀬さんはリッチーブラックモアの自宅に何度も行っていて、一緒にセッションをしたこともあった。

そうした90年代は関わるレコード会社もみんな熱かったと。メタルはダサいと言われた世界とは一線を画した日本独自の現象が音楽業界のトレンドであった。
だが、これに対して2000年代は暗くなる話になる。
そうこうしているうちにお時間に。90分のトークショーは終了した。
私の90年代としては、グランジ台頭をきっかけにメタルを聴く機会も少なくなっていた。
その中でも聴き続けていたのは、メタリカ、ガンズ・アンド・ローゼズ、ボン・ジョビ、エアロスミス、ミスター・ビッグといったバンドだった。

やはり私のコアな部分は80年代のHR/HM。そう言った意味では90年代のメタルはさほど詳しくないところもあるので、勉強になったところもあった。