子供のころから疑問だったこと。

それは、困っているひとになぜ人は声をかけようとしないのかということ。

 

声をかけることがエライとか勇気があると褒められるなんて、おかしくないか?と。

 

人には持って生まれた性格がある。確かに私はあまり物怖じしないほうかもしれない。だがその一方で、とても神経質で繊細、用心深いところだってある。

けれども 困っているひとや具合の良くなさそうなひとがいたら すぐ声をかける。

 

誰かに教わったわけではない。父はもちろん声をかける人間ではあるが、何度もそれを見たわけでもない。

言えることは、声をかけるとき、何も余計なことは考えていない。

(思えば、我が友は似たようなひとばかりになっていた)

 

老人や妊婦、脚の辛そうなひとに席を譲る。

白杖をついたひとにドアの位置や空いた席を教え誘導する。

うろうろしているひとに どうかしたかと声をかける。

‥‥これらは、当たり前 である。

 

よく耳にするのは「親切にしたかったけど勇気が出なかった」。

小学生なら仕方ない。でも‥‥怖いことでもないのに、どうして勇気が要るの?

 

まわりの目が気になる?恥ずかしい?断られるのが怖い?‥‥わからない。

 

大事なことより 自分のことばかり考えるのはなぜ?

 

『わたしでなくても、誰かが声をかけるだろう

これが一番多いと感じる。

いじめを傍観する理由と似ているから

 

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近所に、くるまの多い道がある。

横断歩道を渡るには、車に止まってもらわなければならない。*道路交通法では、横断するひとに譲るのが基本ですけどね。

 

ひとりの老人がずーっと立って待っているのが見える。

私は 遠くからそこへ足早に歩く。

「誰か一緒に渡ってあげて・・」と思いながら。

 

おばさんが通り過ぎ、サラリーマンも通り過ぎる。

そして楽しそうに喋りながら高校生も・・・ああやっぱりな。

私が声をかけるまで、長く感じる一分半。言葉にならない胸の痛み。

 

杖をついた高齢のおじいさんに、「さあ一緒に渡りましょうね」と言う。

すると、それはもう魅力的なしわくちゃの笑顔でこちらを向くのだ。

 

もし耳が遠くて気づいてくれなければ、もういちど大きな声で肩を叩いて言えばよい。「いっしょに、わ た り ま し ょ!\(^o^)/」。

おじいさんはホッとして言うのだ。「あ?・・ありがとうありがとう、あのねえ、なかなか車止まらんねー(^o^)」。

 

私はにっこりしたあと、今度は鬼の形相で くるまを睨む(これ直せないわ)。

手をバっと高く挙げ、止まってもらう。ゆっくりゆっくり おじいさんと渡り切るために。

これまで何度もあった出来事だ。

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子供たちに教えるべきことはたくさんある。勉強なんか後回しでいい。それよりも‥‥

 

いずれ皆、平等に歳をとる。

目の見えない、足が不自由、耳が聞こえない‥‥いろんなひとがいる。

 

自分はひとを助けられるかもしれない。

 

ひとを助けるのに 勇気なんかいらない。

誰だって出来る。大それた事ではないから。

いつでも どこでだって。

 

いじめを見てみぬふりしないことだって!

 

「このひとはどうした(い)のかな?」『自分がこのひとだったら、どうして欲しいだろう?』

 

ほんのわずかな想像力で、たくさんのことが見えてくる。

わたしはそうやって生きていきます

ニヤリ