思いきって、このブログのタイトルを変えました。

…僕の剱舞(殺陣)歴もかなり短くない段階に入って来てしまったので、「頭(考える理想)」と「身体(体力・技術)」のギャップが出来るだけ少ないうちに自分が考える剱について詳しく書きたい気持ちになりました。

そんな気持ちに伴って、最近の稽古場で皆に伝える内容と伝え方が変化して来たように思います。

以前は、僕が剱に対して考えている小さなことは殆ど皆に言いませんでした。僕が勝手に考えている小さなことが皆の役に立つことかどうか自信がなかったので…。

でも最近は、相手の役に立つ、立たない、ということはなるべく気にしないで、僕が剱について考えて来たことを押し売りすることにしました。

それらの情報が相手の役に立つ・立たない云々は伝えた相手にお任せすることにいたしました。

いい歳して押し売り&開き直りです。


ただ、押し売りするからには僕が今までに実感していることしか伝えません。

実感している動きの中から重要だと考えているものを選んで、その動きを伝える為の言葉たちも自分で腑に落ちるものを選んで伝えるように留意します。

なので、従来の稽古場よりも言葉、というか「国語力」がお互いにとって、すごく大切になって来たと思っています。



誰にとっても、考えている身体の動き(感覚)を全て余すところなく伝えることが出来る、すごい言葉は存在しません。…と思います。

なので、自分の動き・技術を精密に伝達しようとしても、現在人間が使っている言葉や文章だけでは全く情報量が足りません。


何か自分の動きに関しての情報を伝える為には、身振り手振りはもちろんのこと、見本、接触、誘導、対峙、などなど様々な手段が必要だと思います。


中でも一番良いのは見本だと思います。しかも、ゆっくりと一つの見本の形を作って見せるのではなく、その一連の流れ(その形の前後を含んで)を実際の速さで行って見せる見本が良いと思います。


「百聞は一見に如かず」の例え通り、やはり「目で見た」印象と情報は教わる側にとっては言葉や文章よりも大きく、その形・流れの全体像を生徒自身の身体に取り込みやすくなります。

と同時に、その結果、その稽古場に通う生徒のレベルが、そこの先生のレベルを超えるものになることが非常に難しくなる可能性も強く持っていて、目から入った情報がいかに大きく影響するかということがうかがわれます。

きっと、最初に見たもの(先生)が基準(理想)となって、そこに到達すること、もしくはそこに向かって行く段階そのものが終着点となっている場合が多いからではないでしょうか。

これは教える側としては、本当は、とても良くない状態だと思います。本来、稽古場にて何らかの技芸を教える・教わる、という状況において、教える側は自身の考える理想に対して自分よりも近づく者、自分を超える者を生むことが、もともと教える側の本意であったはずです。



ああぁぁ…また否定的なブログに迷走してしまいました…

しかも、もともとは桜月流の稽古場において「国語力」が重要だなぁ…と思ったことについて書いてみたかったのに…


ああぁぁ…敦子さん(J-Stage Naviの)、すみません…また一からやり直します…しかし、一応、考えていることを正直に書く…ということは行ってみたので…アップいたします…
(^^;)

自分の思い描く理想の剱に思いを馳せて身体の各部の動きに対して細かい点までひとつひとつこだわり始めると途方もなく、きりがない気持ちがします。

道のりは遠いのだなと何度も思い知ります。

だからこそ面白いのかも知れません。

たどり着きたい場所が遥かに遠いので、夢がふくらみます。思いを馳せて、その場所の様子に思いを巡らせます。もし、その場所に足を踏み出すことが出来たなら…と想像するとワクワクします。きっと近所に出かけるくらいでは感じられない高揚です。しかし、ちなみに…ワクワクって言葉は何なんでしょうか…?期待があまりにも大きくて喜びが沸き上がる…といった情感なのでしょうか?いったい誰が最初に言い始めた言葉なのでしょうか?…ま、いずれにしても楽しい響きに満ちた言葉なので、いいです。



僕は時々、ある夢を見ます。

剱を振っているうちに気付くと身体が宙に浮いている夢です。

その夢を見るといつも夢の中で『あぁ、やっぱりこういう風に剱を振れば身体が宙に浮いたまま動けるんだなぁ』と思います。

毎回、夢だと気付かない迂闊さが進歩のない証拠です。

僕は稽古場で皆に『剱は自分を連れて行ってくれる乗り物だ』と伝えることがあります。剱に対して不遜な物言いに聞こえるかも知れませんが…僕は生死をかけた武術としての剣術からは間を隔てた舞踊や殺陣といった身体表現としての剱術を志しているので、そういった畏れのない言葉を口にしてしまうのかも知れません。が、自分としては正直な気持ちでその言葉を口にします。

きっと剱には元々通りたい道すじ(剱すじ)があって、自分の身体がその道すじの邪魔さえしなければ、剱は自分の身体をまるで乗り物に乗せるように運んで行ってくれるのだと思うのです。

舞う剱。運ばれる身体。


言うまでもなく、頭の中の理想とはまだまだ大きな隔たりを感じますが、日々過ぎて行く時間と共に体力的な減衰を感じ始めてからはよりひときわそのような感覚を強めて来たように思います。

自分の手にした剱がそのおもむくままに、剱自らが通りたい剱筋に閃くかの如くに舞い、その躍動に満ちた自然の流れに運ばれて身体は空間を漂う。

最早とうの昔に盛りを過ぎた今生の僕には不可能だと思いますが、いつの日かは夢の中で成し得たように、剱に運ばれて空に浮かんでみたい、などと時折思うことはあまり人には話せない稚拙な願望です…


今まで自分の思う剱の技術に関する事柄はあまり書いたことがないのですが、今日何となく自分の夢の話や理想とする剱のことを書いたので、これを機に今後は主に自分の思う剱の技術に関して書いてみようと思いを新たに致しました。

『心新たに事に当たれ』

先日、鹿島の地を旅する機会に恵まれ、様々に剱に関する学びを得ることが出来た経験も大変大きな転機となりました。 

ついでに、これを機会としてブログのタイトルも変えてしまおうと思い立ちました。

『舞う剱。運ばれる身体』

僕が剱に関して日々考えることがどれだけ皆さんのお役に立つことが出来るのか、またお役に立てるどころか果たしてこんな認知度の低い話題を読んでくださる方がいるのか甚だ自信がありませんが…少なくとも自分が後で読み返した時に、何らか自分の剱の辿った変化の記録として面白く思えるような、良い意味で飾りのない、普段着の稽古場記録として書いて行きたいと思います。

自分の剱が日々成長して行くことが出来るように祈りつつ、過ごして参ります。

    桜月流美剱道 第一師範・松木史雄

今回の大震災で甚大な被害を被られた皆さんに比べると、全く比べてはいけないほどの影響しか受けていない私たちでさえも、あの大地震が起きてから毎日の生活の中で悲しい気持ちが途絶えることはありません…時に友人と笑顔で会話した後、ふと、いたたまれない、張り裂けそうな感情が戻って来て、涙が落ちて来そうになります

誰しもがみんな、東北の方々に一時も早く癒しが訪れることを祈っています

東北が救われることによって自分も救われる気持ちがします

言いようのない苦しい気持ちから自分が救われたくて、何かをしないではいられなくなります

東北の皆さんを救えるようなことが出来るとしたら、自分を救うことでもあると思うのです


今日は久しぶりにコア・メンバーで会議を行いました。

常日頃、レッスンやイベントなどでお互いに顔を合わせているものの、テーブルを囲んで会議する機会がしばらくありませんでした。

自分で考えていてもなかなか頭の中がまとまらないことも、会議で皆の意見と自分の意見を交わして行くと、自分達が次に進むべき方向がはっきりして来るのでコア・メンバーでの会議は大変貴重な機会です。






昨日の稽古場で宗家が皆に話をしました。


宗家が目の当たりにした仙台市、名取市のこと


被災地の方々への思い
復興の為に現地で働いている様々な方々への思い


そして今、宗家が考えていること


共に剱を振る皆への提案




節電を行っている稽古場は、宗家が語り続けていく内にやがて互いの表情を見分けることが出来ないほど暗くなっていきました。


しかし、宗家の語ろうとする熱は冷めず、約1時間に及んだ話の間中、足を崩さずに正座して耳を傾けている若い者もいました


そして、宗家からの話に続いて、宗家の祈りの言葉に皆で静かに黙祷し、いまひとたび、東北へ救いの癒しが届かんことを祈りました。



私たちが歩いている技芸は剱の道です

日本の剱、私たちの剱は、多分に「祈り」と結びつく技芸であると思います



宗家のヤマト歌にあわせて、私も剱の舞をさせて頂きました


稽古場から東北の方角に向けて、歌と剱の舞を奉納させていただきました


長い道のりを超えて様々な物資を運んでくださっている皆さん、現地で様々なボランティアの御仕事に従事されている方々、離れた地域から篤い支援を行っていらっしゃる方々…様々な方々の行いに比べて、比べることも出来ないほど小さな行いであると感じておりますが、それでも踊りをさせていただきました


私は被災をしてもいなく、五体満足に生きて、家族も遠くで元気で過ごさせて頂いております


申し訳ない気持ちです


仙台空港、名取市の閖上地区で目にした光景は決して忘れる事が出来ません


ほんの少し前までは、多くの様々な人々が行き交い、ざわめき、生きていた場所…きっと様々な「音」に溢れていた町のあった場所です…

今はもう何も音がしていませんでした

しかし、その凄まじい破壊の爪痕を見ていると、その破壊のさなかに響き渡ったであろう想像を絶する音が聞こえて来るような気が致しました

恐ろしくてたまりませんでした


その被災の現場にいらした方々はどれほどの恐怖の中に引き込まれたか、想像さえも出来ません


今こうして生かして頂いている私たちは、被災を受けられた方々に対して出来得る限りの行動を実践しなければならないと思います

「ひとごと」という想像力の欠如は、思いやりのない行いに結びつきます


決して被災を受けられた方々と同じ苦しみ、哀しみを体験することは叶いませんが、少しでも多く、少しでも近く、その方々の痛み、苦しみを感じようとする「想像力」を獲得して、働かせなければならないと思います


ジェニファー・ロペスのコメントに「1分間でいいから被災を受けた方々の為に祈ってください」という一節がありました

今まで、あまり関心を持っていなかったアーティストですが、そのコメントには大変感じ入るものがありました


様々な支援活動を積極的に、実際に、行うことがもちろん一番大切な行動です


それと同時に、ジェニファー・ロペスのような遠い異国の地に暮らしている人々が、今回の震災で大きな被害を受けた方々の苦しみを「わがこと」のように哀しんでくれて、1日のうちの「1分間」の時間を割いて祈ってくれることは、とても得難いことだと思うのです

今、この東京に毎日1分間の時間をとって、被災地のために祈ってくれている人はどのくらいいるのでしょう…


経済活動を活性化するために様々な消費を行うことはたしかにとても大切なことだと思います


しかし、ともすると活発な消費活動が、未だ困難な被災地の状況や未だ苦しんでいる多くの人々の痛みから自分の意識が遊離してしまうことだけは避けたいと思うのです


いまだに日々の食事に事欠く人々がいる状況で、享楽的な食事を楽しむ気持ちにはなかなかなれません

しかし、そうだとすると、震災以前にも世界中にはおびただしい数の餓えた人々はいたのです
その時、享楽に走っていた自分に想像力はあると言えるのか


今回の震災の哀しみから本当に多くのことを考えます


多くの自分の欺瞞を感じました


一刻も早く、被災を受けた全ての方々に、癒しの救いが訪れられることを祈ります




「世界全体が幸福にならないかぎりは、個人の幸福はありえない」

          (宮沢賢治)