この記事はネコバッカ王国の病気について。まぁ殆どネコバッカ王国の話なのでイラネ(゚Д゜)な方はパスしてくださいね。
何か参考になるかもしれないと思ってくださった方がいらっしゃれば幸いです!
まず、ネコバッカ王国は通院中の身です。
今メインで通っている病気は、てんかん、PTSD、GIDです。
私は今現在の年齢になるまで自分がてんかんだということを知らずに生きてきました。私の中でてんかんというのはがくがくする痙攣と泡をふくという程度の俗的な知識のみで、そういった症状が出ない私は縁がないものでした。
しかしながら、子供の頃から心身ともに疲れると視覚の遠近がおかしくなったり緊張が高まると眠くなってしまったりとおかしな様子が多かったのですが周りの大人には集中力が足りないからじゃないかと言われまだよくわからない私はそうなのか、頑張らなきゃ程度に思っていました。年を重ねるごとに症状は減っていきましたが、私にはてんかん患者である自覚はないため疲れているんだ、程度の判断でした。ところがゆんさんを出産し、まだだっこ紐で外出することが多い中人通りの多い道で意識の断絶がありました。時間としては数十秒程度なので周りからすれば突っ立ってる人だったと思います。しかし当の私は自分の目的も忘れ、もう左足から出せばいいのか右足から出せばいいのか、そんなことにすら混乱をし結局帰宅を選択しました。この帰路もまるで自分がいつも通っている道とは思えないようなあやふやで腑に落ちない、まるでクレヨンで描いた様な世界。足元はジグソーパズルででも出来ているかのような不安定感。怯えながら帰宅し、その時も何やら解らんが私は結構疲れているのかそうかと納得していました。しかし、毎日起こるわけでなくてもそれなりに起こる現象に明らかにおかしいと思い始めた頃、一人での外出中に倒れてしまいました。意識はあるものの汚い話ですが、下痢が止まらずめまいも止まらない。結局ネコバッカ王国夫がゆんさんと一緒に迎えに来てくれました。寝ればなおると思っていたにも関わらず翌日にも引きずりこのままではまずい、ゆんさんはどうするんだという思いで夫に救援を求め早退してきてもらいました。
正直この地点で、内科でどうにかなるものじゃないと思っていました。それでも私は夫にそのことを告げられず、一旦内科に行きました。結果異常は見つからず。断腸の思いで精神科に通わせてほしいと頭を下げました。
これには理由があり、私は夫と交際中に別の診断内容で精神科に通っていました。それも治り通院も服薬もなくなり、夫も喜んでくれました。それを裏切ってしまうという意識があり伝えることが凄くつらかったのですが、このままでは事故に遭うかもしれない、危ない、命は帰ってこない、代わりもない、ゆんさんに何かあったら取り返しがつかない。そんな危機迫った思いを伝えたところ夫は失望なんかしないよ、辛かったねと言ってくれました。そして通院。
ところがどっこい。初めて通う病院はとてもきれいで和やか。この病院でよかったと思う反面、医師に不信感が募りました。話をろくに聞くこともなく薬の変更も特別なく効いているのいないのかよくわからない薬を飲む。その中でカウンセリングも始まりました。カウンセリングを受けるうちに、意識の消失について焦点を当てるうちにカウンセラーさんが焦り始めました。この日のカウンセリングの最後に「このままだといけないかもしれない。私からも医師には伝えるようにしますが、もし次発作が起きたら次の受診を待たずすぐに来てください。」と言われました。そして、数日後発作発動。どうしたものかと思いつつ病院に電話をしましたが次回診察日を進め続けられたのですが、カウンセラーさんにまず聞いてほしいと伝えたところカウンセラーさんは受診をすすめてくださりその日はいつもと違う曜日でしたが来院。初めての医師にお会いし診ていただきました。今の主治医さんです。
今思えばあのとき電話で必死に伝えてよかった。そう思えるくらいいい医師に巡り会えました。私の病理にぴったりとあう医師だったのです。そこで診察時間40分ほど。ここの病院でこんなにしっかりと話を聞いてもらったのは初めてだったので驚きました。患者さんの話を聞いてその症状に合った薬を出すんだから当たり前だよと笑われてしまいましたが(苦笑)
さて、てんかんの話に戻りますが。てんかんは脳の病気とも言えるし精神的な病気とも言えます。非常に曖昧であり両方の部分を持っているとも言えます。私の場合は側頭葉てんかんでした。震えなどの症状はほぼなく、突発的に短時間の意識の断絶。意識が戻ると混迷状態になる。視覚情報が狂うなど。私の家系にてんかん患者はおらず突発的に生まれたてんかん患者のようです。しかし、私の発症は自身の家庭環境の複雑さから来ているようでした。起因のひとつです。ここから私のPTSDが解りました。
私の場合、母子家庭の上母は非常に奔放な人で私を育てたのはほとんど祖母でした。しかし祖母の育て方というのは人格を無視するような、私の動きを封じるようなもので。今考えれば虚弱だった私に対して神経が尖っていたところもあると思いますが(苦笑)
機嫌が悪い日は学校へ行かず朝から晩まで一部屋で正座をし続けました。ノーは許されませんでした。言われたことに従うことは絶対。外へ遊びに出られるのも祖母の機嫌がいいときのみ。叩かれれば壁に体を打ち付けられるほど強く。家事をやることも沢山ありました。これは凄く役に立っていますが(°∀°)b
言い訳をすればねじ伏せられる。言う通りにする他ありませんでした。
どんどん麻痺する感覚と同時にここを追い出されれば自分は行く場所がないという気持ちから言われたことをこなしつづけました。学校へ行けば子供独特の虐めに合い、家に帰っても監視されるような日々は息詰まっていました。母が恋人を連れ帰れば、居間でみんなで食事するのは狭いからと私はベランダの入り口でご飯を食べました。空が綺麗でしたね。それでもなんだかんだ強かなもので、いつかこっちが勝ってやるんだと言う思いもあり、しつけられた言葉遣いや家事、勉強をし続けていました。非の打ち所がないようになるためでした。
でもPTSDにもっと起因するもの、それは死ぬかも知れない恐怖でした。私にはおばがいて、その人はとても精神的に不安定な人でした。同居していたので、おばが不安定になり凶器を持ち出したり、そのフラグが立ち始めると隣で祖母が死んでいたらどうしようとか殺されるという気持ちを抱いていました。どこへいても生きた心地はせず、学校帰りに救急車やパトカーを見れば何かあったんじゃないかと肝を冷やしました。
私にとっては生死は簡単には受け止められず、いつしか死と何かを天秤にかけることが当たり前になりました。そして、誰にも相談できない日々は辛く苦しかったです。
そんな日々は私にとっては虐待なんか受けてない。だって私は殺されたわけでも凶器で刺されたわけでもないんだからと極端すぎるものになっていました。でも親となった以上、虐待は連鎖するという言葉が脳内に蔓延り恐怖となりこれも病院に通う一つのきっかけになりました。
この虐待の連鎖の一つの結論ですが。
被虐児であったものが虐待をするという科学的根拠はなく、自分が気づかず虐待を受け虐待をし…という連鎖の中から抜け出そうとするかつて子供だった親は、自身の過去とこれからの未来の板挟みで辛い思いをするかもしれない。けれど自分がされてきたことをしたくない出来ないと思うのであれば虐待なんか出来ない、ということなんだそうです。
私が受けてきた死を感じるほどの恐怖、そして死んでしまいたいほどの絶望感。そのための治療に現在焦点をあてています。てんかんの発作が落ち着いてきた(薬があっている)ことがシフトする変わり目だったそうです。私が病気を克服したい一つの理由として、やはり命は帰ってこない、危ない目に会ってからでは遅いというものがあります。てんかんにしろ、PTSD起因のフラッシュバックにしろ発作が起きた状態でゆんさんはどうなるのか。それが怖くて怖くて仕方ない。一日でも早くだなんて言わないから、ゆっくりでもいいから、対処法を見つけていきたいです。
最後にGID。
これは性同一性障害です。私は戸籍上女性であり、子供の母でもあります。
要は入れ物は女性であり、精は男性です。
3歳くらいから自分が女の子ではない自覚はありましたが、とても言えず(子供ながらに言ってはまずそうと思うんですよね)、親の方針的にも伝えられず男性的な体に手術することやホルモン剤を投与することは非現実過ぎました。その上、私はかわいい物好きで持ってるものだけでは我慢できず着用することもありました。それ故に本当に男なのか?しかし女ではない。じゃあ中性なのか?と性別の概念なく生きてきました。生きてくる上で何度も疑問にぶつかり、嫌な思いにぶつかる。月に一度のものは吐き気をもよおし鬱屈とする。自身の自認してる性別を自身の体に否定されるわけだから。今でも嫌です。戸籍欄に女性とチェックするのも嫌です。でも親になって気づいたこともあるんですね。母親だから、この子にとって母親でいられるようにすればいいだけ。かわいい物好きで着たくなるのは女装に過ぎないじゃないか。ただ単に生まれるときにちょっとミスってしまっただけだとおもえるようになりました。治療という治療はしてませんが、ホルモンが安定する漢方を飲んでいます。
夫、友人含め今までごめんと伝えたところ(それでも性的自認は曖昧だと知ってはいましたが)いいんじゃないの、わかってよかったじゃんと言って貰えました。恵まれていると思います。
母親じゃなくて親でいいよ、と医師には言ってもらいましたし。すっきりしました。親の顔色を伺いながら言いたいことも言えなかった。子供にとって親は神様みたいなもんだから。その神様がいなくても生きられる大人になった今の私は、もう縛られる必要はないんだなーと一つの解脱は果たせたのでそれだけでもほっとします。
ちなみにですが、性同一性障害であるに関わらず結婚をし子を成したわけですが。単に私は性別で恋愛対象を決めるタイプではなかっただけのはなしで、子供を授かれたらいいなという気持ちもあったということです(むちゃくちゃ子供が好き)
今はゆんさんもいて、自身の病気の治療を重点的に行っている上で。一生薬を飲むかも知れない、短命かもしれない、次は安全に生めないかもしれないなど、精神的なもののみではなく私の先天的に持っている持病のことなど様々な理由がありゆんさんはひとりっこなのです。
長生き願望がなかった私に、この子が成人するまで生きたいと思えるならば生きなくては。
これはあくまで私の病気の一事例です。必ず同じ病気の方がそうとは限りません。
けれど、悩みや辛さを抱え、生きるために投薬をし幸せを持ち続けるために頑張ってるひと。全てに幸あれと、思います。
おもーい内容になってしまいましたが、もしかしたらたまに病気の経過をお伝えするかもしれません(;^ω^A