こちらは、宮城県名取市閖上中学校。
先月撮影した今の姿です。
海からの距離は約2km。
最上階の3階は浸水を逃れましたが、、、
ここも1.87mの津波に襲われました。
閖上中学校入り口の道路。
ガードレールが海側に倒れています。
これはきっと、
大波が海に向かって引けたとき、
船や車や建物が流されて力が加わったのでしょう。。。
未だ・・・そのままの形。
中学校正門前の時計。
今もまだ、
地震発生時の14時46分で時間が止まったまま。
3.11の午前。
市内中学校の卒業式の日。
卒業という儀式を終えた後の惨劇を思うと、
自然の神様というのはまこと酷です。
悲しくて悔しい気持ちに拍車をかけます。
学校前の献花台。
教室で使っていた机に数々のメッセージが書かれていました。
その中の一つのメッセージ。
”閖上中の大切な大切な仲間14人が
やすらかな眠りにつける様祈っています”
亡くなった子供の名前も書かれていて・・・。
本当に、、、
やすらかな眠りにつける様お祈りします。
そして、学校の中。
何か、、、時間が戻ったよう。。。
ここ、閖上中学校は、閖上地区の指定避難場所。
広い平地で山がないため、学校などの高い建物が唯一の避難場所でした。
この近く800mの場所にある閖上公民館のこと。
こちらは二階建ての建物。
この公民館に一旦避難した住民の皆さんは、その津波の高さを懸念して、ここ閖上中学校へ避難するため、急遽移動したのだそうです。
しかも車で移動する方も多かったとお聞きしました。
ところが・・・、
道は大渋滞。
信号は停電で作動せず。
町の防災無線も故障で使えず。
更にその先の閖上大橋で事故があり、幹線道路が通行止めになっていたのも大きな不運。
そしてその避難途中、車ごと津波に流されたというのです。
特に痛ましいのは、
この交通渋滞のなか、
”交通違反をするわけにいかない・・・”、
という律儀で真っ当な考え方。
そう、大津波が来るなんてまるっきり想像していなかったという事実です。
当時の映像を見ると、津波の速さは尋常ではありません。
車も建物も水に滑るように動き、軽く浮いてあっという間に流されて行ったそうです。
そして、その公民館。
二階に残っていた人たちはかろうじて無事だったといいます。
その時点で、
その指示が・・・、
その判断が・・・、
どちらが正しいかなんてわかりっこありません。
そして今・・・、
その痛ましさと、悔しさと、無念さで胸が締め付けられます。
犠牲になられた方々のご冥福を心よりお祈りします。
自分自身、、、
今は宮城を離れ、
仕事を持って、喧騒の真っ只中で日々暮らしていると、
あの日にあったこと、その被害の甚大さ、その後の苦労、今現在の復興状況などなど、
ともすれば、一日の中で、その思いが浮かばない日も正直あります。
そういう意味で、
この記事は、
見てきたこと、聞いてきたことを伝えるという、第一義の目的だけでなく、
自分自身のために書いていることでもあります。
土地勘があって、
その昔を知っていて、
思い出が残っていて、
そういう自分だから・・・、
自分なりに書き伝えようと思って、
そして、
忘れないようにと思って、ただ書いております。
ここまでお読み頂きありがとうございます。
・・・あともう一記事、書きたいと思います。
あの震災を忘れない。。。
そして、
”忘れない”という気持ちも忘れないようにしよう。
これからも”共に前へ”。
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