トランス界隈がおかしい理由
私が思うこと。
① 社会的に生きにくい人たちを全て巻き込む価値観
② 共感し合える仲間と帰属意識
③ ポップでオシャレで先進的なトレンド意識
④ まやかしの“正義”
⑤ エコーチェンバー(情報偏向による思想強化)
⑥ カルト宗教的な発展
① 社会的に生きにくい人たちを全て巻き込む価値観
誰しも生きにくさを覚えている。人付き合いは趣味嗜好だけでなくちょっとしたことで困難になる。そんなときに失敗の原因を本人は模索する。病気になったときに症状でgoogle検索するようなもの。結果として誰しも少しは抱える「普通じゃないこと」にジェンダーの悩みとリンクさせてしまっている。昨今のジェンダーの問題は当事者が問答無用で正しく、本人に改善の努力を求めない価値観。自分の問題点や課題を適切に認知できない人たちが多い理由となっているように思う。
私の経験上、性同一性障害の要素が、私感覚ではあるが、極めて薄い人も多かった。以前にも記事にしたけど、むしろもっと重篤な精神疾患を抱えている人がかなりの頻度で散見された。そういう人たちがジェンダー論を通して社会に責任転嫁してしまいやすい傾向があると思う。
だからこそ昔は「性同一性障害」として他の疾患と区別をしていたはずだ。今では本人がそうだと感じればみな「性別違和」として社会批判をする免罪符を手に入れられる。自分を顧みることができない人たちの巣窟に成り果てた。ワガママを平気で言える理由はそこにあると思う。
② 共感し合える仲間と帰属意識
はっきり言って、この手の人権活動のネットワークは温かい。いろんな場所で私も活動をしてきた。みんな私の苦しみに共感してくれた。みんな悪意からではない、心から優しさで包み込んでくれる。お互いに傷を庇いながら舐め合いながら。時に疲れた心には必要なことだろう。私も助けられたクチだからよくわかる。しかし、その癒やしは物事を進展させることはない。進めるのは自分自身。変えるのは自分自身。それなのに、変れないことも変わらないことも優しく抱擁してくれる。社会で努力して苦しむのと、ただただ愚痴を言って悲劇のヒロインとして愛され続けることを比べて、依存してしまう人が多い。いや、そもそも責任転嫁傾向の人たちがいるわけで、結果としてドツボから抜け出せない人が内包されやすい。もちろん全ての活動ではないが傾向はあると私は感じる。そういう温かい環境にいることを心地よく思い、その「家族」の輪の中に帰属していく。結果として社会からの精神的分断が進んでいる。閉ざされたジェンダーの世界。
③ ポップでオシャレで先進的なトレンド意識
世間の中にもまたそういう自由に呼応する人たちも多くいる。苦しんでいる“可哀想な人”を支援することで自己満足に変えている人もいる。なんだあの「アライ」なるものは。私は点字も読めるし、手話も知ってる。白杖を持った方に腕を貸すし、難聴の友人をサポートするし、車椅子の友人を押して上げるし、お年寄りにも妊婦さんにも優しくするよ。子どもたちを守るし、震災の被災者に手を差し伸べる。ただ奉仕するだけじゃない、相手の自活を助けること、それが私は共助だと思う。それと何がどう違うのか。同じ地球人で同じ日本国民で、あたしも救われてきたし、あたしもできることをする。それだけの話。それなのに何故「アライ」なのだろう。何故それを掲げるのだろう。そしてお祭り騒ぎだけ続けるのだろう。
街にいっぱいLGBTが存在することを知らしめるだけ。真に隣人として社会で手を取り合う助けなんてしない。当事者が社会に馴染めない理由を考え一緒に乗り越えようとはしない。お祭り騒ぎをして可哀想ねと同情して社会が悪いと安直に決めつけ、意識高い系の自分を誇ってるだけにしか見えない。そんなブームを作ったのがアメリカやヨーロッパの人権活動家だと思う。その流れを日本が後追いをしてる。お洒落でポップなレインボー。
しかし、少数派のトランスジェンダーが大きなムーブメントを作れるはずがない。①②の通りワガママに陥りやすいトランスジェンダー当事者への無責任な支援を進めたアライの責任は重い。今の混乱もこれだけ当事者が異論を言っているのに、当事者のことすらアライの感覚と違うから批判する。アライは真に当事者のことなんて考えていない。それは彼らが流行やステータスを追い求めているから。
海外では子どもがトランスジェンダーになったら誇らしいという活動家アライすらいる。呆れるばかり。
④ カルト宗教的な発展
そんな界隈だからこそ最早そこに当事者の実態はない。しかし、走り出した“善意”は止まらない。可哀想な当事者がいて助けなければならないという価値観と、その価値観に祭り上げられた「抜け出せない当事者」が声高に人権を叫ぶ。この価値観に呼応しないものは差別主義者だ。“優しいアライ”は熱心に耳を傾け熱い視線を向けて強く頷く。
そういうのも、20年程度前に当事者の話を聞く会にお呼ばれしたときに、ゲイから今はアライだと自称する社会学者で活動家の友人(昔メディアでも少し出てた方)の話す“身勝手だけど一見すると美しすぎるLGBT論”に向けられた主婦の視線がそんなだったから。当時としたら先端過ぎてこっちの知識も追いつかなかったし、反論する勇気もなかったから、あたしは当事者の苦悩だけお話しました。
その他にもあたしが文科省に直で陳情して、私と担当官の二人で完成させた対応の通達が出されて制度変更をしたことすらも、社民党の活動の実績として掲げられたり。はっきり具体的に書くと、高校等卒業後に戸籍を変えた場合の学校の証明書類の名前の訂正ができるようにするという制度。あれは社民党ではない、私が変えました。一人で陳情して変えました。担当官も「そんな陳情いままで無かったが、確かに変えるべきですね」と同調してくれました。そこから二日間ほどのやり取りしかしていません。すぐに通達が発せられました。学校が掌を返してスムースに対応できました。それを新宿南口の大階段下で大きな声で誇る某党首とその支援者の様に嫌気が差しました。
そのころの経験からこの世界には関わりたくない、気味が悪い。
私達は前に進むと妬み僻みやっかみ。暴力的に批判される。傷を舐め合い、かばいあい、正当化する。そんな価値観を受け入れない相手をまた蹴散らし、乱暴に権利を獲得する。LGBTは無敵の属性。少しでもLGBTの仲間に入ればみんなで守る、みんなで戦う。いい加減そんなまやかしは断つべき。こんなのただの薬物依存。
⑤ エコーチェンバー(情報偏向による思想強化)
それなのに、今はSNSの時代。活動家界隈の横のつながりが強くなってきた。仲のいい人たちによる見たい情報ばかりが入ってくる。きっと中にいる人たちには見えてない。世間はその異常な価値観に気付き始めてる。今反撃に出ようとしている。マジョリティが優しく消極的賛成をしてくれていたのに、敵に回してしまった。そのムーブメントすら彼らのエコーチェンバーの中では見ることができない。そして心やさしい市民を未だに攻撃している。それが正義だと未だに信じて暴走している。もはやトランスジェンダーは戦争に足を突っ込んだと思う。負けるだけの戦争に。
はっきり言う。こうなったのは声を上げてこなかった当事者の多くの責任。美しすぎる綺麗事を並べて無秩序を作り上げた活動家アライ。言いたくはないけど、よくわからないままで消極的に認めてきた社会。みんな悪い。
けど、みんな正直他人事なんだ、当事者以外は。自分たちの話なのに知らないふりをしてきた私達当事者の責任。それを社会のせいにするのは筋違い。自分たちがやるべきことをやって始めて批判する資格があると思う。つらい人たちに寄り添う気持ちも必要だが、今の活動家と違う当事者の声は顔出しではなくても表明すべきだと思う。
何が正しいのかは私達が決めるわけじゃない。これから国民的議論になったときにに、活動家以外の意見があることも踏まえた上で国民が決めることだと思う。だからこそ一人でも多くの国民に今まで見られなかった当事者の姿も思いも伝えていくべきだし、それが私達の幸せにつながるはず。“可哀想な当事者”だけではなく、私達幸せに近付けた当事者の幸せも同じく追求したっていい。幸せになるために努力してきたんだから。何故“弱者”と言われる私達が同じ“弱者”からさらに我慢を強いられなければならないのか。私達にも声を上げる権利は等しくある!発言の自由を!幸福追求の自由を!社会と共生する自由を!
こういう活動が嫌で離れたのに、幸せいっぱいの生活を送れるよう頑張ってきて、実現できたっていうのに、結局こんなことを叫ばなきゃいけないなんてさ。悲しい。