ストレスマネジメント


ストレスコーピングという言葉をご存知だろうか。


原因〜認知〜反応


の過程で出来事がストレスになるまでを分けて考え

どのように対処するのか考える方法論。


性同一性障害や性別違和の私達が

弱者という立場に居続ける理由も

諸々解決して幸せになる為の方法も

方法論で解決策が見つかるかもしれない。


というか、私自身がストレスにやられたのも

ストレスを乗り越え社会に適応できたのも

後になってわかったけどこのストレスコーピングの

テクニックと同根の思考に切り替えたから。


精神不安定に陥りやすいホルモン療法や

制度的不自由からストレスを感じ易い

トランスジェンダーのストレスマネジメントとして。


いや、性同一性障害や性別違和に限らず

社会で生活するために全ての人が利用したい

方法論だと思う。


悩める人たちは是非考えてほしい。

正式な心理学的解説は巷に溢れているので

そちらを見てもらうとして、


あえて私の目線でストレスコーピングをまとめてみる。



ストレス発生〜解消


ストレス反応の発生には三段階ある。

そして、ストレス解消の行為が続く。


①ストレス源となる出来事が発生する

②不都合だと認知する

③ストレスに感じる


出来事が起こるだけではストレスはない。

自分のこととして認知し、更にそれが有害だと認知して

初めてその害に警戒するストレスを覚える。

結果としてストレスを解消したいと行動に移す。


多くの人はこんな対応をするんじゃないだろうか。


信頼できる人に愚痴る。

気晴らしに好きなことをする。

泣きわめく。怒る。

酒を飲む。


これは全て③へのアプローチ。他にも


クレームをつける


というアプローチもあるだろう。

これは原因となる出来事を自分好みに変えようとする

①へのアプローチ。


しかし、これらの対応は周りから見ていてどう見えるだろうか。

はっきり言う。面倒くさい人だよね。

でも、ここが日本人のいいところ。

みんなそんな困ってる人に最初はとても優しい。

そう、私もそういう優しい人に支えられ今がある。

しかし、ずっと変わらず続いていたら

本当に面倒くさい人になってしまう。


だからこそこれらのストレス解消法は

他人に対してそう長くは見せられないストレス解消法なのだ。



それなのに、これらアプローチは全て

どれだけストレスを解消しても

ストレス源を全く解消できていない。

ストレス源がそこにある限り永遠にストレスに

さらされ続ける宿命にある。


喩えは悪いがママ友や死にかけの毒姑のように

一定期間過ぎ去れば縁が切れる

そういうストレス源なら耐えるのも1つ。


でも、いつ終わるのかもわからないような

ストレス源から逃れる方法として

ストレス源から離れる、近付かないという対処がある。

嫌いな人には近付かない。嫌いな場所には近付かない。

それができるなら、それも1つだろう。


しかし、家族だのご近所だの職場だの、

性同一性障害の制度的問題や、ホルモン副作用のように

切るに切れない関係のストレスは逃れられない。


ストレスの原因を確実に取り除くことができれば

本当に幸せなことではあるが、

力ずくで人の価値を害したり、クレームしたり、

それが他人のストレスとなってしまったり

自分の立場をより悪くしてしまう可能性があること。

この点にも注意したい。



どのようにストレスと向かい合い、

緩和していくのかはストレス社会に生きる

非常に重要なスキルだと考える。


これら基本的なストレス解消法、根本解決法を

どう組み合わせてストレスを乗り越えるのか

それがストレスコーピング、ストレスマネジメントだ。


私のストレスコーピング


他人の感情や利害に直結する場合


逃げられるなら逃げるのが一番楽。


相手との対立(①)は最終手段。


時間が解決するならとりあえずストレス発散(③)に

なることで誤魔化すのも1つだろう。


利益相反にならないよう発想を変えて、

自分の行動スタイルや価値基準をかえてしまう(②)のも1つ。


相手と自分の利害を双方で確認して

不利益の中に利益を確保(①)していくのも1つ。



細かいことが気になる夫の小言


子どものいい加減さは変えられないし、

変えさせることで子どものストレスと対立するから

やはり小言は避けたい。

しっかりした大人に育てたいという善意が通じないことと

細かい怠慢が見ていて不愉快だという感覚に襲われるから

善意が通じないという認知を改めて

通じない子どもに対するより良いお父さん像を

与えることで認知をアップデートしてみた。(②)

不愉快は不愉快でも、いいお父さんになれたという

自己満足の感覚で不愉快な感情と相殺させた。



気の合わないママ友


虎の尾は踏まない。①

とりあえず子どものことを知るパイプは残せた。②

どうせ切れても最低限の挨拶で終わらせて①

関わらなきゃいいだけ、むしろ清々する。②

仲良しママ友との愚痴大会の肴にする。③





世のおばちゃんが図々しいのも

女性社会のネチネチストレス社会に

子どものために必死に適応する過程で

養われるものだと思う。勝手な感想。

だって、本当にママ友たちのドロドロはエグい。

中学高校とかの女子もエグいと思ってたけど、

子どもたちが関わってくるからこそ

ママたちの執念たるや半端ない。 

(え?うちの近所だけ?笑)

きっと自然とストレスコーピングを

してると思う。


女は本当に強いよ。

女社会のど真ん中に入ってきて痛感する。



トランスジェンダーのコーピング


話は変わって、トランスジェンダーのコーピングで

私がかねてより提言しているのが

「謙虚たれ」

「弱者に甘んずるなかれ」

という価値観。


その真意は、先にも書いたように日本人は

本当に優しい人が多い。ほとんど優しい人。

みんな困っている人を目の前にすると

助けてくれる。心寄せてくれる。


アメリカ人のトランスジェンダー友達は

私が普段みんなにしてもらうような手伝いを

少ししただけで涙ながらに感謝して、

私の幸せを神に祈ってくれた。

アメリカでは誰も助けてくれない。

誰も心寄せてくれない。

制度はできても心はそこにない。

地域にもよるんだろうけど、

とてもかわいく優しく知的な彼女が

涙ながらに訴えたのは

真実がそこにあるのではないかと思う。


弱者であること


それなのに、何故日本の当事者は苦しむのか。

はっきり言って弱者であり続けようとしているからだ。

私はそこに答えがあると確信している。


日本人はみんな優しすぎる。

私達セクシャルマイノリティが辛いといえば

みんな寄り添ってくれる。

私達もテレビや雑誌などで差別されていると言われたら

支援しなきゃいけない存在なんだと聞かされたら

人を頼っていいんだ。泣きじゃくっていいんだと思う。

いや、確かに辛いときは人に頼ればいい。

泣きじゃくってもいい。


でも、延々と泣きついてくるだけで

それを受け止めるのってキツイよね。

何年経っても辛い辛い辛いじゃ相談に乗る方も辛い。

無理って断ると、差別だとか嫌われたとか、

はっきり言って面倒くさい人多いです。

はい、むかしの私も少なからずそうでした。


解決策見つけられないんです。

何故かっていうと、差別されてる私達だから

きっと差別されてると思いこんでいます。

みんな愚痴を聞いてくれると思いこんでいます。

社会で上手く行かないことを差別だって思いこんでいます。

冷静に考えたら、窓口業務の人に文句言っても始まらないのに

窓口の人の差別だとすら感じてしまいます。


いやいや、これマニュアルでしょ?

あなた達の都合は知らないから

いきなりは対処できないよ?


そういう当事者の行動を知っている人たちは

みんな当事者から逃げます。

関わってもいいことないもん。


被差別分類だとされる人たちに共通の感覚かもしれない。

優しくされてるのが心地良い。

そういう優しさをくれる人たちは正義で、

私達もその正義の活動の先端にいる。


バカを言うな。ただの依存だよ。

だから無責任な優しさは麻薬と同じ。

その優しさに甘えているうちは

ストレスの原因を解消できない。

ストレスを乗り越える術がない。

いつか吸いつくされる人の優しさにすがるだけで

人間らしい自由な生き方ができなくなる。

いつまでも辛い人生になる。

幸せなんかいつまで経ってもやってこない。


確かに当事者は辛いことも多い。

ホルモンの副作用で精神不安定になって

ストレス耐性が極端に落ちることもある。

私も本当に苦しかった。

でも、実際って幸せを掴むチャンスっていっぱいある。

幸せを掴むことは普通にできる。

辛い辛い言い続けてる当事者さん、

いい加減に幸せを掴みに行こうよ。


確かにいろんな事情で縛られてる人もいる。

だからこそどのように乗り越えていくかを考えなきゃいけない。

優しさに甘えるんじゃなくて、

未来を描いて、ストレスを乗り越える自分を想像しようよ。


今が活躍してる当事者は本当に沢山いると思う。

彼女たちがなぜ輝いているのか、

ストレスとどう向かい合っているのか、

どう自己実現をしているのか、

そこにヒントがあるはず。

私はそう確信している。


だからこそのストレスコーピング。



根本原因の解消のため


行動を起こすときに制度なりなんなりが邪魔することがある。

私がぶち当たった壁の中でも大きかったものが、

高校の卒業証明と内申書の再発行の時。

新しい名前と性別で出してほしいとお願いしても

取り合ってもらえなかった。


多くの当事者は窓口で暴れるか、

差別だと諦めるか、裁判で力ずくになるか。


いやいや、何が原因なのかしっかり突き止めてほしい。

窓口は個人の判断では何もできない。

職務ルールに従ってるだけ。

そのルールを解明するしかない。

感情的になっても窓口担当は困るだけ。

当たり前の話。


その結果県教委からのマニュアルだとわかった。

窓口担当に感謝こそしても、不満なんて何もない。


県教委でも無理と言われたが、

担当に確認すると国の通達で決まっている。

文科省の高等教育課から出されている。

もう感謝しかないね。


担当官に繋いでもらって陳情したら

あっさり変わってしまった。

日本初の事例をあっさり作ることができた。


目先の出来事に一喜一憂するのはわかる。

しかし、それが何故そうなるのかを

しっかり突き止めること、

問題解決のための必要不可欠な視点だといえる。


自分で見つけられないときは

人の助言を賜ったり、助けをもらいながら

問題の根本を突き止めていきたい。


政治家や活動家を利用するのも1つ。


しかし、活動家は力ずくで解決する人も多い。

自分たちの利益の為に社会への配慮を欠く人もいる。

利益相反型の解決策。

この点がもう一つ懸念する理由。


誰よりも支援をしてくれてたはずの左派政党の支持者の中で

トランスジェンダー活動家への不満が高まっている。

女性の権利を大きく害する内容に踏み込んだからだ。

自分たちの権利と他者の権利のバランスを欠いた要求を

力ずくで勝ち取ることしかしない故の事件だ。

それを長らく見てきたから私は活動家の方たちと

明確に一線を引いて生きてきた。


それでも人の優しさだけで権利は獲得できた。

人の優しさだけで幸せに生きることはできた。


何を理解してほしい?


当事者は性同一性障害の自分を受け入れてもらえないという。

いや、価値観を標榜すれば価値観を人は評価せざるを得ない。

しかし、あなたは性同一性障害の人なのだろうか。

あなた自身のはず。


私のことを慕ってくれる人は

私が性同一性障害だから慕っているのではない。

性同一性障害をカミングアウトしても

変わらず慕ってくれた。

むしろ「で?」である。

中には性同一性障害であることを知って

意識して避ける友人もいた。

私を嫌う人は基本的に性同一性障害を話す以前に嫌う。

性同一性障害は私のことを真に承認するための

ツールにはなっていないことがわかる。

そう、人はそんなアイデンティティを気にしていない。


性同一性障害を知らない人はわからなくて逃げる。

面倒くさいのは嫌だ。

性同一性障害を知っていて可哀相と思い込む人は

どんどん優しくしてくれる。

どっちも当事者のことを見ていない。

みんな性同一性障害、性別違和、トランスジェンダーという

カテゴリでしか当事者をみていない。


自己承認にカミングアウトは関係がないことがよくわかる。

つまり、カミングアウトははっきり言って不要だ。

カミングアウトして承認されないというのは

大きな間違いなんだと気付く。


認められるためにはその鎧を脱ぐしかない。

鎧を脱いで人として認められるしかない。

不安だよ、怖いよ、でも、それしか解決する手はない。


義父妹に認められるまで私も8年近くかかった。

それまでは嫌われ続けてた。

でも、みんなに私として承認された。それでいいじゃん。

そして自分の力を高め、強く生きることで

義父たちを救うことができた。

ただのオトコオンナじゃない。

普通の嫁だと気付いてもらえた。


承認欲求を乗り越えろ


トランスジェンダーの私を認めてもらえないストレスから

私自身のことを認めてほしいと問題を整理して②

認めてもらうための自分磨きをしよう。


目指すは100%の承認ではない。

私として愛され、私として嫌われる。

普通に生きているみんなと同じように

私として好きも嫌いも認めてもらうことがゴールじゃない?

私は誰かに嫌われても幸せだよ?

まして性同一性障害にこだわって拒否する家族もいるけど

私が嫌われてるんじゃないもん。寂しいけどさ。


そして、自分自身を社会から認めてもらえるようになったとき

性同一性障害、トランスジェンダーなどへの偏見はなくなる。

自分自身の夢実現にもつながるだろう。

色んな意味で多くの当事者の支えになれる。


何度も書いてるけど、これがこのブログの目的。


大切なのは前を向くことと歩く方法。

そのためにも正義をかざして戦うよりも

相手に感謝し、助言を仰ぎ、自分を高めること

つまり弱者の立場にあぐらをかかず、

努力する謙虚さが大切だと思う。


もし、当事者に支援をしてくださる方がいるとすれば

私からお願いしたいことは、

苦しみを癒やしてあげつつ、

未来を描くサポートをしてあげてほしいということ。

可哀想ばかり先行して話す内容がどうかを

考えずに慰めるばかりでなく、

間違えていることにはしっかり

間違えていると伝えてほしいということ。


優しさという麻薬で破滅する当事者を何人も見てきた。

単純な優しさは相手の身を滅ぼす。

ただの過保護のわがままっ子になっちゃう。

あなたは永遠に可哀想なその人を支えることはできない。

いつか離れたときにその友が生きられるよう、

とことん承認してあげてほしい。

未来を描いてあげてほしい。

弱者だと思わないでほしい。

特別な助け無しで生きられる人にしてあげてほしい。


多くの当事者とも違う考えかもしれないけど、

私の40年余りの経験から考えた提言でした。