2. 社会の動きについて
…実社会について、学問分野について
(自分がどういうふうに平和に関わりたいのか、つまり自分が守りたい平和は何か、という問い。
2.1 スウェーデン社会と比較しながら、
日本社会がどういう状況にあるのかを客観的に学ぶ
→日本社会の現状
A.
2.1
日本社会の現状について学べた/考えたことは、まず政治面について。
これについては、Swedish Politicsの授業を取りながら、日本の政治についても知るように試みた。日本では自民党が長く政権を握ってるけど、それをスウェーデンの社会民主党と比較したり。あとは日本の政治について詳しい友達と話し合ったり。
思ったこととしては、スウェーデン・日本ともに長期政権だし、スウェーデン=社民党のイメージがとっても強いけど、日本の自民党一強はそれよりも強く、覆すのは難しい現状にあるのかなと思った。それがいいか悪いかは置いておいて、民主主義がうまく働いていないと言われるのは、単純に投票率の低さとか以外にこういうところにもあるんだろうなと思った。
あとは、スウェーデンが全体的に左寄りの政党が多いのに対して、日本は右寄りだということも。歴史的に労働者が連帯して政権を握ってきたのがスウェーデンだとしたら、日本はいわゆる既得権益層の力が強いと言える。
こんな風に、スウェーデンと日本って、全然違うといえば違うのだけど、何かと相対的に比べないと、日本という一つの国の特徴は見えてこない。当たり前のように享受していた政治のあり方も、他の立場から見たら特徴に見えることもあるんだってことに改めて気づけたし、その意味で、スウェーデンから日本の政治について見つめたことで収穫があった。
続いて経済面について。
これはスウェーデンのそれとの比較、というより、日本から離れて、日本という国を客観的に見つめたことで見えてきたこと。日本って、昔に比べて確実に衰退しているなあ。と思った。
その昔、戦後にめざましい復興を遂げて「ジャパン・アズ・ナンバーワン」なんて言われた頃もあったそうだけど、今や経済力では第3位。その順位を覆す未来は見えないどころか、景気は良いといえない。
今はまだ、経済成長の意味とか経済の動向が人々にもたらす影響とか、自分の意見として全然持っていないけど(これを知りたい、だからこそ最近経済に興味が出てきた)、日本が国際的に認知され、ある程度存在感をを認められているのはかつて経済成長を遂げたおかげでもあるんじゃないかな。
私は、日本人として海外に出て、国際交流をするのが好きです。でもそれは、日本という国について知らない人はまずいないという前提があって初めて成り立っていたことなんだなあ、と気づいた。もちろん、人々の日本に対する印象が良いことが多いのは、日本文化が持つ魅力とか国民性とか、いろんな理由があってのことだと思う。しかし、もしこのまま経済が落ち込んでいったとしたら、50年後、100年後も、日本人が今のように「日本人」として胸を張って海外の人とお話しできる状態はあるのでしょうか。
ちょっと話は逸れるけど、日本に帰ってきて、スウェーデンのことを考えた時、ふと思った。あれ、日本じゃ、スウェーデンに関する情報って、全然入ってこないな、と。ニュースで報道される外国の情報は、アメリカや「欧州全体」のことばかりです。それがいいとか悪いとかではなくて、スウェーデンにいると、スウェーデンは「小国」であるのだ、ということを忘れかけてた。こんな風に、ある国にいると、どうしてもその国を客観的に見ることができなくなってしまうことって、自然だと思った。
2.2
日本という国はどういう方向に進んでいて、社会を今動かしている人たちは、それぞれどう歩もうとしているのか
→日本社会におけるアクターとそれぞれの取り組み
これをなぜスウェーデンで見出そうと思ったのか謎だけど…日本社会に限った話ではないけど、社会を動かすアクターという意味においては、いろんなアクターをそれぞれ二つの軸に関して分類することができた。(留学の具体的な経験によって見出せたというより、留学っていう、たっぷり自己内省やインプットや友達との会話に時間がさける期間に色々考えることができたって感じ)
(1)イデオロギーとの関わりについて:政治家型と官僚型
(2)取り組むものについて:ニーズ型とイノベーション型
まず(1)について、政治家と官僚と言葉はもちろん比喩なのですが、どちらも社会をより良くする、という名目のもと働いているという前提のもとで、
政治家型というのは、社会をこういう風にするべき!という自らのイデオロギーを持ち、発信していく職業のこと。
官僚型というのは、上のように、こうすべき!という方向性を受け負い、具体的にそれを実現する手段を考えていく人のこと。
(2)に関して、
ニーズ型というのは、具体的に解決すべき問題があって、そのための解決策を考えている人たち。マイナスから0に引き上げる感じ。もうニーズがある。
イメージとしては、飢餓問題に取り組んでるNGOとか。
イノベーション型というのは、具体的にこの課題のため、という風に特定しているわけではないし、今現段階でニーズが顕在化しているわけじゃないけど、ゆくゆくは社会において0から1を生み出すポテンシャルを秘めているものたち。
イメージとしては、iPhoneを作り出したApple社とか。
2.3
そこに、自分をどう関わらせたいか、何なら頑張れると思えるか、見つけるのが今やりたいことです。
→自分の志向性
A.
多分、(1)については政治家型、(2)についてはテクノロジー型しか従来は視野に入ってなかった。
(1)について、どんな社会がいいんだろう?って考えて、それっぽい答えに出会って、なんとなく発信してみる。
かつて私は、難民問題について興味を持っていました。
でもその時は、どこか自然と「難民の人権は守られるべき」っていう気持ちが先にあって、あくまで難民庇護推進側に偏った意見が形成されていたような。
かつて私は、平和を訴えていきたい、と言っていました。
でも私が訴えたい平和ってなんだ。例えばある国で政府と反政府組織の紛争があって、大国が政府側に味方して反政府側の領土を空爆して滅ぼして、紛争が終わったとする。それで訪れた紛争のない状態は、平和なんですか、って話。
私は、良い社会を定義するには、「誰にとって」という主語が枕詞のようについて回ることに気づいていなかった。そんなの疑う余地ない、って思うとしたら、それは自然と主語が自分を含むその他大勢、って感じになっちゃってるから。
そう思うと、何がいいかなんて決めることができなくて。
こういう社会にしていきましょう、って、良かれと思って考え出したことで、誰かが不幸になるかもしれない。
私はこのことに気づいてしまったからこそなのか、それとも元々性格的なものなのかわからないけど、もうこれからは「こういう社会にしよう」と声を大にしていうことはできないと思うんです。でもでも、社会が動くには、誰かが方向性を決めなくてはいけないんです。絶対に全員の人にとってパーフェクトな方向なんてなくても、その決定によって不利益を被る人に目をつぶったとしても、盲目的になる必要がある。だから政治家が必要だし、すごくあこがれる部分でもあります。
っていうネガティブな理由もあるけど、じゃあ自分の志向性はどこにあるんだ、と考えた時に、政治家型というよりは官僚型に近いのかな、と思った。
昔から物事を客観的に見ることが好きだし、こうしたい!というものをすでに持っている人を応援するのが好き。
自分が注目を浴びるより、裏で作用を及ぼしている場で、誰かが輝いていて、嬉しそうにしているのを見るのが好き(あまりしっくりきている言語化ではないです)。
過去の経験に根拠を求めるのはあまり好きじゃないけど、それでも、例えば高校でハンドボール部のマネージャーをやっていた頃はとっても楽しかった。
だから、社会を良くするためには、良い社会をまず定義するところから入るしか方法がないのではなくて、誰かの信じる「良い社会」のアイデアに乗っかって、その実現を支えるという方法もあるのだと気づけたのが大きかった。
(むしろ、いい社会をまず定義してしまうと、それを実現する過程が一人で成し遂げられるわけじゃないから、苦しむこともあるのかもしれないと思った)
全部自分でやらなくていんだ!
(2)取り組むものについて:ニーズ型とイノベーション型
これについては、これまで目の前に大量の社会課題が取り沙汰されていて、それにいっぱいいっぱいだった自分がいた。
だから、絶対にニーズがあるものに応える形の職業がいい、って思ってた。例えば医者とか弁護士とかがその例。
そして、例えば、夫婦でカフェを開いている人とか、ひたすら歌を歌ってる歌手とか、絶対に必要とは言えない職業については、「誰のためになっているんだろう。自分がやりたいことをやるだけの人生なんて。」と冷めた目で見てしまうことも(今だからこそ言えるけど)。
でも、もうすでにニーズがある職業にだけ、意味があるわけじゃない。確かに、苦しんでいる人を苦しまなくすることは本当に意義があることだけど、「普通の人をより幸せにすること」も、すっごい意味があるんだろうな。こういう幸せがいい、こういう生活がいい、って、それを受け取る側は明確に定義しているわけでは全くないけど、あったらすごく幸せになれる。やがてそうやって享受することが当たり前になり、なくてはならないものになる。
これは、平和について学んだ時もそうだった。
紛争がない世界を目指すとして、紛争がない、という状態が達成されたらそれでいいのか。ううん、それだけじゃないよね。紛争がなくても、食べ物がなければ、幸せとは言えない。食べ物があっても、毎日パンと水じゃそのうち飽きてくる。そこに美味しい料理と、さらには過ごしやすいお家、そして愛する家族がいて、やりがいのある仕事があって、打ち込める趣味があったら。
今あるニーズに応えることこそが社会貢献だ、って思っていたこれまでの自分は、ある意味視野が狭かったのかなと思った。さらに、人は幸せになろうと思えばどこまでも幸せの意味を広げていけにるんだって、知らなかったんだと思う。貧しくない家庭に生まれて、学校にも行って、将来好きな仕事を選ぶことができるっていう完璧に幸せな今の私が、満たされているはずの私が、ゆっくり美味しいコーヒーを飲みながら友達と話すと、さらに幸せを感じられるなんて、全然知らなかったよ。幸せの可能性に限界を決めてた。きっと。
新しく得たこの視野にあえて「イノベーション型」と名付けてみたのは、最近ちょっとテクノロジーとか技術革新などに興味が出てきたからです(にわかです)。
たとえば、理系分野の基礎研究とかって、「植物の観察ばかりして一体何の役に立つの、何か発見があったとして、確かに人間をとりまく環境について知っていることが増えて、いわゆる”アカデミック分野”に貢献できるのかもしれないけど、だからなんなの。生涯好きな分野についての好奇心を追い求められる職業で、いいねえ。」なんて、何にも知らないのに思ったこともあった(これも今だからこそ言える)。
でも、どんな発見が実用可能性を秘めているかなんて、研究を始めた時点ではわからなかったことも多いんじゃないか。今こうして当たり前に使っているインターネットも、発明した人がここまでの普及を想定していたかというと、絶対そうじゃないはず。既存のニーズに応えるニーズ型のアプローチだけではきっと出会えなかった新たな解決策にも、イノベーションによって生まれ得るんじゃないかな。
テクノロジーの進歩には賛否両論あれど、確実に世界は変わったし、世界が今も進歩している動きは、決して止められない。止める必要もない、と思ってる。
きっとすべきことは、まず、世界がもっとよくなる可能性にふたをしないこと。それにはイノベーションが必要。
その上で、それでも変えたくないもの・失いたくないものは何か、しっかり見失わずに訴えていくこと。新たに生まれてきた弊害をできるだけ汲み取って、改善していくことなんじゃないかな。これがニーズ型のアプローチ。
だから、きっとイノベーション型もニーズ型も両方必要なんだろうなって思う。さらに、イノベーション型から新たなソリューションや、今想像し得ないような価値が生まれることもある、って、その可能性を考慮する必要があるなと気づけた。
じゃあどっちに取り組みたいかっていう話だけど、今はまだわかんないや。たとえばイノベーション型に手を染めてみたことはないし。
全部の仕事がこの二つにきっぱり分類できるわけでもなさそうだし。
でも、きっと両方に興味があるんだろうな。
私にとって大事なのは、「何か良いもの」に向かって生きてるっていう事実そのものなんだと思う。だから、視野が広がったことをまず喜ぼう、って思った。
