謝 霊運(しゃ れいうん)385年 - 433年
東晋から南朝宋にかけての詩人・文学者。
魏晋南北朝時代を代表する詩人で、
山水を詠じた詩が名高く「山水詩」の祖とされる。
少帝の時代に政争に巻き込まれ、
永嘉郡(現在の浙江省温州市)の太守に左遷させられるも、
在職1年で辞職、郷里の会稽に帰って幽峻の山を跋渉し、
悠々自適で豪勢な生活を送った。
文帝が即位すると朝廷に呼び戻されて、秘書監に任ぜられ、
『晋書』の編纂などに従事した。
しかし、文帝が文学の士としてしか待遇しないことに不満を持ち、
病気と称して職を辞し、再び郷里に帰った。
再度の帰郷後も山水の中に豪遊し、太守と衝突して騒乱の罪を問われた。
聡明で様々な才能に恵まれたが性格は傲慢で、
大貴族出身だったことも災いし、後に刑死した。
石壁淸舍還湖中作
石壁清舎(せきへきしようじや)より湖中に還(かえ)る作
漢文
昏旦變氣候
山水含淸暉
淸暉能娯人
遊子憺忘歸
出谷日尚蚤
入舟陽已微
林壑斂暝色
雲霞收夕霏
芰荷迭映蔚
蒲稗相因依
披拂趨南徑
愉悅偃東扉
慮澹物自輕
意愜理無違
寄言攝生客
試用此道推
書き下し文
昏旦(こんたん)に気候変じ
山水清暉(さんすいせいき)を含む
清暉能(せいきよ)く人を娯(たのし)ましむ
遊子(ゆうし)憺(やす)んじて帰るを忘る
谷を出(い)でて日尚(ひなお)蚤(はや)く
舟に入りて陽已(ひすで)に微なり
林壑暝色(りんがくめいしよく)を斂(おさ)め
雲霞夕霏(うんかせきひ)を收(おさ)む
芰荷(きか)迭(たがい)に映蔚(えいい)し
蒲稗(ほはい)相因(あいいん)依(い)す
披払(ひふつ)して南径(なんけい)に趨(おもむ)き
愉悦(ゆえつ)して東扉(とうひ)に偃(ふ)す
慮澹(りよしず)かにして物自(ものおのず)から軽(かろ)く
意愜(いかな)いて理違(りたが)う無し
言を寄(よ)す摂生(せつせい)の客(かく)
試(こころ)みに此(こ)の道を用(もつ)て推(お)せ
現代語訳
石壁清舎の辺りは夕暮れと朝とでは、
空の様子、日の光の自然の情景が違う。
山も水も清らかな光りを帯びている。
この清らかな日の光、
その微妙な変化はよく人を楽しませる。
だからここに遊ぶ私はうっとりして、
帰るのも忘れてしまう。
谷を出て遊びに出かけたのは、
日も昇らないまだ朝も早い時刻だったが、
舟に入って帰ろうとする自分には、
夕暮れの太陽が、もうかすかになっている。
林や谷が夕暮れの色をすうーっと
吸い込むようにだんだん暗くなってゆく。
雲や霞は夕焼けの輝きを吸い込むように
消えてゆく。
残照の中で、岸辺のひしやはすといった
水草は互いに照り映え、
がまやひえは互いに寄りかかっている。
舟を下りて、草や木をかぶったり払ったりしながら
南の小道を走ってゆき、
楽しい思いで家に帰り、東の扉のところで身を横たえた。
思いは澹々(たんたん)として
世間をどうでもよいと思う気分になり、
わが心はすっかり満足して自分の本性に
違うものはない。
道を楽しんで長生きしようとする、
そういう人にちょっと言ってやろう。
このような生き方をためしにしてごらんと。
鑑賞
この詩は前半が自然描写で後半が理屈、
と言う構成(謝霊運の作品にはこの型が多い)。
謝霊運の詩の見どころは何といっても自然描写の妙である。
そこにはいくら年月を経ても光りのあせない清い輝きがある。
例えば、
「林壑暝色(りんがくめいしよく)を斂(おさ)め
雲霞夕霏(うんかせきひ)を收(おさ)む」
句がそれである。
夕暮れの林や谷の奥深いところから、
だんだん暗くなってゆくのを、
暝色(夕暮れの色)をおさめる、という。
また雲霞の方は、
夕焼けの赤い輝きがチラチラと降るように注いだのが、
やがて消えてゆく情景である。
後半は、
このような自然の中で生きるのが、
最も人間らしいのだ、
うらやましかったらまねをしてみろ、とうそぶく。
2026年3月18日
本来なら四十寺山(高知県)の登山ツワーに参加予定だったが、
雨の予想だったので4月17日に延期された。
午後から雨のようなので、
午前中は散歩に行くつもりである。
午後は
●8年度の集落業務担当割り表
●7年度小川下池水利組合の総会資料
の作成。