弥陀に救われたもの
原文
念仏者は無碍(むげ)の一道(いちどう)なり。
そのいわれ如何(いかん)とならば、
信心の行者には、天神・地祇(ちぎ)も敬伏(きょうぷく)し、
魔界・外道も障碍(しょうげ)することなし。
罪悪も業報(ごうほう)を感ずることあたわず、
諸善(しょぜん)も及ぶことなきゆえに、
無碍の一道なり、と云々。
意訳
弥陀に救われ念仏する者は、
一切が障りにならぬ幸福ものである。
なぜならば、弥陀より信心を賜った者には、
天地の神も敬って頭を下げ、
悪魔や外道の輩(やから)も妨げることができなくなる。
犯したどんな大罪も苦とはならず、
いかに優れた善行の結果も及ばないから、
絶対の幸福者である、と聖人は仰せになりました。
解説
「無碍の一道」は、
「妨げるものは何一つ無い絶対の道」 とか
「何ものも障りにならぬ、ただ一つの通路」
などと解説されるが、理解する人はあまり多くあるまい。
すぐ後に「罪悪も業報を感ずることあたわず」
とあるから、
「念仏者は、罪悪感から解放される」
「念仏すれば、悪の報いを受けずに済むのだろう」
と思う人さえあるようだ。
これは「無碍の一道」の誤解である。
「無碍の一道」を正しく理解するには、
まず、仏教の究極の目的は、
”浄土往生”であることを確認しておかなければならない。
ゆえに、「無碍(碍(さわ)りにならぬ)」といわれる碍りとは、
”浄土往生の障り”のことである。
では、「念仏者」とは、どんな人をいうのであろうか。
「念仏者」と聞くと、
口で ”南無阿弥陀仏” と称える、
すべての人と思うだろうが、そうではないだ。
聖人の念仏者とは、
いつもその中の、他力の念仏者であり、
弥陀に救われた信心獲得(しんじんぎゃぐとく)の人のことである。
他力の信心を獲得(ぎゃくとく)すれば、
なにものも往生の障りとはならないから、
「念仏者は無碍の一道なり」
と聖人は道破されたのである。
2025年12月9日
マウスの誕生日
Tの過去・現在・未来を考えることを目的に、
2018年に「IT25・50」シンポジウム実行委員会が制定。
1968年12月9日、ITの父ダグラス・エンゲルバートにより
インターネットの歴史の出発点となる
「The Demo」が行われたことを記念。
ダグラス・カール・エンゲルバート
アメリカ合衆国の発明家で、
初期のコンピュータやインターネットの開発に関与した。
マウスを発明し、ハイパーテキストや
ネットワークコンピュータや
グラフィカルユーザインタフェースの
先駆けとなるものを開発した。
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世界初のマウスの試作品。
午前中はヨーガ教室。
午後は年賀状を作成するつもりである。