馬鹿にするのは、

小説にしても映画にしても、

何かをコピーしただけの作品を

 「自分の創作物だ」

というふうに出すような人です。

 

  富野由悠季(とみのよしゆき)

    日本のアニメーション監督、演出家、脚本家、

    漫画原作者、作詞家、小説家。

    本人は演出家・原案提供者としている。

 

    1941年、神奈川県小田原市生まれ。

 

    小学生の時に手塚治虫の「アトム大使」

    (「鉄腕アトム」の前身にあたる作品)を読み、

    親に「アトム大使」を連載していた

    雑誌『少年』を毎月買ってくれるように頼む。

 

    この経験が、後に富野が手塚治虫と関わるきっかけにつながる。

    この頃は画家になりたかったのだが、

    いつまでたっても絵がうまくならず、

    14歳で画家になる夢に見切りをつける。

    その後映画の魅力にとりつかれ、

    映画業界の仕事に興味を持ち始める。

 

    1964年、手塚治虫の虫プロダクション入社。

    就職先はアニメ業界ではなく映画業界を志望していたが、

    すでに大手映画会社は大学新卒者の採用をやめており、

    学部の関係上、就職口が虫プロしかなかったと述べている。

 

    『鉄腕アトム』では制作進行・演出助手・脚本・演出を担当する。

    

    しかしプロダクション内で軋轢が広がり、

    富野はアニメ村化する虫プロに嫌気が差して行った。

 

    1967年3月に虫プロを退社する。

 

    当時の虫プロでの軋轢について

     「アニメだって映画、動かなくてはいけない。

      それを止めて見せることができるという発想は許しがたかった。

      最初は仕事と割り切っていたが、

      半年もすると不満が沸いてきた。

      当時、虫プロで働いていたのは、映画的なセンスがない人たち。

      僕は映画的な演出ができる確信があったので、

      アニメとは言えない電動紙芝居でも、

      作りようはあると思うようになった。

      そんな体質が分かるのか、

      僕が演出になると、先輩から徹底的に嫌われた。

      『アトム』での僕の演出本数が一番になったとき、

      みんなの視線が冷たかった。

      『アトム』が終わると、虫プロを辞めた」

     と語っている。

 

     ただし富野は

      「(手塚治虫から)アニメは全部動かさなくても

       伝えられるということを教えてもらった」

     とも語っている。

 

     1972年、『海のトリトン』で実質的に初の

     チーフディレクター・監督・絵コンテを務める。

 

     1975年、『勇者ライディーン』の監督、絵コンテも担当。

 

     1977年、『無敵超人ザンボット3』の

     総監督・原作(共同原作/鈴木良武)・演出・絵コンテ・原画を担当。

 

     1978年、『無敵鋼人ダイターン3』の

     原作・総監督・脚本・絵コンテ・作画監督を担当。

 

     1979年:自身の代表作といえる『機動戦士ガンダム』の

     総監督・原作・脚本・演出・絵コンテ・作詞を務める。

 

     それまでの巨大ロボットものとは一線を画し、

     「リアルロボットもの」と呼ばれるジャンルを確立した

     エポックメイキングな作品。

     ロボットものでありながら、

     人間ドラマを主軸とした物語は初回放送時に

     一部に熱狂的な支持者を獲得した一方、

     スポンサーの玩具売上で苦戦し、

     スポンサーであるクローバーの意向により

     テコ入れの路線変更が決定され、

     2クール目より冒頭にガンダム換装シーンが入り、

     新商品Gメカと毎回敵メカが出てくる

     スーパーロボット路線への変更を余儀なくされた。

 

     また、玩具の売上不振により

     4クール52話の予定から39話への短縮を要求され

     結局1か月分の4話を延長した全43話で折り合いが付けられた。

 

     そして放映終了を境に人気が本格的に過熱。

     熱心なファンの再放送嘆願により、

     再放送、そして映画化へとつながる社会現象を引き起こして行く。

 

  上記の言葉は、額面通りに受け取れば

   「クリエイターはオリジナリティが大事である」

  となるであろうが、富野はまた

   「独自性など、それ程明確に確立できるものだはない。

    流用・真似が創作の基本と考えてもよい」

  という発言もしている。

  その上で

   「表面を真似るな」

   「見たままをコピーするな」

  と警告する。

  

  技術を覚えた時点ではまだ「コピー」に過ぎず、

  そこから抜け出すために何ができるかを

  考え抜く必要があると富野は語る。

 

  そしてそのヒントも富野は語っている。

 

   「絶対的に新しいものが世の中に一つだけあること。  

    それは、世の中は変わっていく、明日は新しいということ。

    時代に合わせていくことは、

    少なくとも回顧でもなければ、

    コピーのしようもありませんから、

    次の時代のスタイルになるものを発見する、

    その表現方法を考えてみてはいかがでしょうか」と。

 

私が子供のころ東京の叔父さんが、

毎月『少年画報』を送ってくれたことを思い出した。

当時田舎では中々手に入らない貴重品だった。

  『少年画報』(しょうねんがほう)

     少年画報社が発行していた日本の少年漫画雑誌、月刊誌。

     執筆陣は手塚治虫、藤子不二雄、赤塚不二夫等

     かつてトキワ荘に住んでいた者を含む錚々たる面々がおり、

     当時の少年誌の発行部数では常に上位に位置していた。

 

今はYouTubeでマンガを読んでるエロじぃいじ!!

情けないけど・・・あんがい面白いのだ。

 

2024年6月25日

午前中はヨーガ教室。

 

午後は昨日行けなかったゴルフの練習。

 

夜は集会場で集落15軒の集金常会(毎月25日)がある。

 

氷上八幡神社の総代として集落の世話人N氏に、

”夏越祭”のお供え1000円と形代500円の集金を依頼している。

 

また、私は願勝寺の集落7軒の世話人にもなっていて、

7月7日の”夏まいり法要”の

永代経懇志金1000円とロウソク料1000円を集めるつもりだ。

 

この集まりも何年続けられるか?

あと10年は無理だろうなぁ・・・・・!!