喜怒哀楽をもって人を楽しませる

というのは素晴らしいことだと考えます。 

 

  永田雅一

    日本の実業家、映画プロデューサー、プロ野球オーナー、馬主。

    昭和初期から後期(1930年代後半 - 1980年代前半)に活動。

    大映社長として『羅生門』などを製作。

    プロ野球大映球団のオーナーとなり、パ・リーグの初代総裁。

    大言壮語な語り口から「永田ラッパ」の愛称でも知られた。

 

    出生

      生家は染料と友禅の問屋であった。

 

      雅一が3つぐらいのときから家運が傾きはじめた。

      工場が火事になったり、

      女中と小僧が金を持って駆け落ちしたりで

      転落に拍車をかけた。

 

      やむなく両親は同じ中京区の

      御池通神泉苑町に小さい家を建てて引越し、

      商売を縮小したのだが、

      父が友人の借金の保証をして破産の憂目を見ることになった。

 

    馬主として

      1934年にサラブレッドを購入し、競走馬の馬主となる。

      10戦無敗で皐月賞、

      東京優駿(日本ダービー)を制し二冠を達成したが、

      破傷風にかかり悲劇の最期を遂げたトキノミノルの馬主でもある。

      「トキノ」とは馬主でもあった菊池寛の冠名であり、

      「菊池寛の夢が実る」という意味で改名されたもの

      (デビュー戦の馬名は「パーフェクト」)と言われている。

 

      後年、トキノミノルをモデルにした

      『幻の馬』という映画も製作している。

      他にも名牝クリフジの産駒で、

      桜花賞・優駿牝馬の2冠を勝ったヤマイチや、

      ダービー馬ラッキールーラの母トースト、

      天皇賞馬オーテモンなども永田所有だった。

 

    映画界へ

      永田はマキノ兄弟との縁から1925年、

      日本活動写真(現・日活)京都撮影所に入所し、

      映画人としての道を歩む。

 

      駆け出しの永田は便利屋として働き、

      持ち前の雄弁さと、人を外らさぬ社交術で、

      藤村義朗や浅岡信夫、望月圭介らに可愛がられ

      政界への足場を築く。

 

      1946年の第22回衆議院議員総選挙に

      京都選挙区から立候補したが、落選している。

 

    大映社長として

      1942年、政府の勧奨で映画会社が統合される際に、

      業界を東宝ブロックと松竹ブロックに

      二分する動きがあるのを察知すると、

      当局に掛け合って新興キネマと日活を軸とした

      第三勢力による統合を認めさせ、

      「大日本映画製作(大映)」の成立に成功。

 

      成立と同時に作家の菊池寛を同社社長に担ぎ出し、

      自らは専務に就任。

      1947年には社長となる。

 

        この間、1946年の第22回衆議院議員総選挙に

        京都選挙区から立候補したが、落選している。

 

        1951年、個人所有していた競走馬トキノミノルが

        10戦全勝で東京優駿(日本ダービー)を優勝する。

 

      その3ヶ月後には『羅生門』が

      ヴェネツィア国際映画祭グランプリ、

      アカデミー外国語映画賞を受賞。

 

      この『羅生門』の受賞を契機としてその後も

      『雨月物語』(ヴェネツィア国際映画祭 銀獅子賞受賞)

      『地獄門』(カンヌ国際映画祭 グランプリ受賞)

       などの国際的に名声を得た大作を手掛ける一方、

      日本初の70ミリ映画『釈迦』も手掛けた。

 

      1953年には、

      松竹、東宝、東映、新東宝に呼びかけ五社協定締結を主導

      各映画会社に所属する技術者や俳優の他社への出演を原則禁止した。

 

      「永田ラッパ」と呼ばれたワンマンな

      放漫経営の弊害は年を追う毎に色濃くなってきたが、

      極端なワンマン経営およびその性格ゆえに

      周囲から永田に諫言できる人物もおらず、

      1960年代半ばからの日本映画界の急激な斜陽と不振の中で、

      ほとんど製作本位で大作主義だった大映は

      ジリ貧に追い込まれてゆく。

 

      その中にあって長谷川一夫の引退、

      山本富士子・田宮二郎の解雇、勝新太郎の独立、

      養女の永田雅子と結婚させて

      いわば娘婿の関係にあった市川雷蔵のガン死(1969年)、

      大型新人スター不在といった問題が重く伸し掛かり、

      ついに1971年12月23日に

      東京地方裁判所より破産宣告を受け、倒産。

      

    それでも、永田は1976年に永田プロダクションを設立。

    同年、永田の跡を継ぐことを狙っていた

    徳間康快の徳間書店の子会社となって

    映画製作に復帰していた大映作品の

    映画『君よ憤怒の河を渉れ』にプロデューサーとして

    参加することで、映画界に復帰した。

          

    熱心な日蓮宗信者としても知られ、

    晩年には萬屋錦之介(初代中村錦之助)主演で

    映画『日蓮』を製作した。    

 

映画は登場人物の喜怒哀楽を駆使して、

描かれるものであるという、

永田のこの信念は日活・大映時代の多くの作品に貫かれている。

 

2024年6月10日

毎週第二日曜日はウオーキングセンターで

しらやま朝市(8:30~9:30)が開催される。

豪雨の中、近所のY女史が半生うどんを買って来てくれた。

訳あり(賞味期限が間近)商品で、ひと袋100円也(通常432円)。

昼食はざるうどんにするつもりだ!

 

午前中は集会場で卓球の練習。

 

午後はカラオケ教室。