醒めよ、吾(わ)が理性、醒めよ、我が、強き意力、

  常に爾(なんじ)を欺きて、眠らせんとする、

 卑屈なる吾(われ)を鞭打て、吾は弱し、されど、

吾は、吾自ら進まざる可(べか)らず、

      醒めよ!常に醒めよ!

 

  岸田劉生

    大正から昭和初期の洋画家。

    1891年(明治24年)、薬屋「楽善堂」を経営する実業家、

    岸田吟香の四男として東京の銀座に生まれる。

    弟はのちに浅草オペラで活躍し

    宝塚歌劇団の劇作家になる岸田辰彌。

    東京高師附属中学中退後の1908年(明治41年)、

    東京の赤坂溜池にあった

    白馬会葵橋洋画研究所に入り黒田清輝に師事した。

 

    1911年(明治44年)

    『白樺』主催の美術展がきっかけで

    バーナード・リーチと知り合い、

    柳宗悦・武者小路実篤ら『白樺』周辺の

    文化人とも知り合うようになった。

 

    1912年(明治45年)、

    高村光太郎・萬鉄五郎・斎藤与里・清宮彬・木村荘八

    らとともにヒュウザン会を結成、

    第1回ヒュウザン会展には14点を出品した。

    これが画壇への本格的なデビューといえる。

 

    劉生の初期の作品はポスト印象派、

    特にセザンヌの影響が強いが、

    この頃からヨーロッパのルネサンスやバロックの巨匠、

    特にデューラーの影響が顕著な写実的作風に移っていく。

    1914年(大正3年)に娘の麗子が誕生、

    1918年以降に彼女をモデルとした多くの「麗子像」を描く。

    1920年(大正9年)、

    30歳になったことを期に日記を没するまでつけはじめ、

    幅広い交友関係が窺われる。

    後年『劉生全集』や、

    『劉生日記』(各・岩波書店)にまとめられている。

 

    1929年(昭和4年)9月末から、

    南満洲鉄道(満鉄)の松方三郎の招きで

    生涯ただ一度の海外旅行に出かけ、

    大連・奉天・ハルビンなどに滞在する。

    しかし、現地の暮らしになじめなかったこともあり、

    11月27日には満洲を発って帰国の途に就いた。

 

    12月14日に体調不良を訴え、

    2日後の16日に医者から慢性腎臓炎による

    視力障害と診断されるも、

    彼は腎臓だけでなく胃・肝臓・心臓までも病に侵されていた。

 

    18日朝、彼は「暗い、目が見えない!」と訴え、

    日本画壇を支配していたアンリ・マティスをあげて

    「マティスの馬鹿野郎!」と叫び続けた。

    それから2日後の20日に、

    胃潰瘍と尿毒症のため死去した。38歳没。

 

劉生の日記の中には自分を鼓舞する言葉が多い。

上記の名言もその一節である。

 

「自分の虚栄心は他人に対して、 

 自分は偉い人間だぞと云いたがっている、

 それから、自分は世間的に名のひろまった、

 つまり有名な人間だぞと云いたがっている」

など、

社会の評価に対する自ら不安と常に戦っていたことが

日記に綴られた言葉の節々から感じられる。

 

2024年6月4日

家庭菜園の6月3日現在

  長野の弟が植えたジャガイモは収穫して、

  兄弟皆にお裾分けしてくれた。

 

  胡瓜は毎日採れている。(既に30本以上、元は取れた!)

 

  茄子1個、ピーマン1個

    特にピーマンはカメムシが大量発生していたので、

    殺虫スプレーで駆除した(採れるといいのだが?)。

  西瓜はパチンコ玉ぐらいが数個付いてる。(目標10個)

 

  南瓜も順調に蔓が伸びている。(目標10個)

 

  赤紫蘇・青紫蘇でたっぷりジュースを作れそうだ!

   

午前中はヨーガ教室。

 

午後はゴルフの練習。