見つかったぞ  何が?

永遠が  海と溶け合う太陽が

 

  アルチュール・ランボー

    フランスの詩人。

    アルベール・ティボーデにより、

    ヴェルレーヌ、マラルメ、コルビエール、

    ロートレアモン伯爵と並び

    「1870年の五人の異端者」の一人に数えられた。

 

    早熟な天才、神童と称された彼は、

    15歳のときから詩を書き始め

    20歳で詩を放棄するまでのわずか数年の間に

    「酔いどれ船」などの高踏派、象徴派の韻文詩から

    散文詩集『地獄の季節』、

    散文詩・自由詩による『イリュミナシオン』まで

    詩の伝統を大きく変えた。

 

    彼の詩論、詩人論として知られる「見者の手紙」において

    「詩人は、あらゆる感覚の、長期にわたる、

     広大無辺でしかも理に即した錯乱により、見者となる」

    と語り、

    ブルジョワ道徳をはじめとするすべての因習、

    既成概念、既存の秩序を捨て去り、

    精神・道徳、身体の限界を超え、

    未知を体系的に探求しようとした反逆、革命の詩人であり、

    ダダイスム、シュルレアリスムへの道を切り開いた詩人である。

  

    ダダイスム

      1910年代半ばに起こった芸術思想・芸術運動のことである。

      第一次世界大戦に対する抵抗やそれによって

      もたらされたニヒリズムを根底に持っており、

      既成の秩序や常識に対する、否定、攻撃、破壊

      といった思想を大きな特徴とする。

 

    シュルレアリスム

      戦間期にフランスで起こった

      作家アンドレ・ブルトンを中心とする文学・芸術運動である。

      「口頭、記述、その他のあらゆる方法によって、

       思考の真の動きを表現しようとする純粋な心的オートマティスム。

       理性による監視をすべて排除し、

       美的・道徳的なすべての先入見から離れた、思考の書き取り」

      と定義した。

 

    父フレデリックは任地にいて不在がちのうえ、

    イザベルが生まれた後(ランボーが6歳の頃から)家に戻らなくなり、

    母ヴィタリーは女手一つで4人の子を育てた。

 

    ランボーは幼時に、この厳格・勤勉で気位が高く、

    非常な敬神家であった母の影響を強く受けたとされる。

 

     1861年、私立のロサ学院に入学。

    一家の引っ越しのため、

    1865年に市立シャルルヴィル高等中学校に転校した。

 

    早熟な天才、神童と称されるランボーは、

    実際、模範的な優等生で、

    ラテン語の詩などで数々の優等賞を得た

 

    高踏派の韻文詩「酔いどれ船」

      ランボーは、出会ったポール・ヴェルレーヌに

      詩を送るよう勧められた。

      当時27歳のヴェルレーヌはすでに

      詩集『サテュルニアン詩集』『艶なる宴』を出版し

      『現代高踏詩集』第2集にも詩を発表していた。

 

      ランボーの才能を見抜いた彼は

      「やって来たまえ。

      偉大な魂よ、われらはきみを呼び、きみを待つ」

      とパリに来るよう勧めた。

      手紙には高踏派の詩人たちから集めた旅費が同封されていた。

 

      こうして1871年9月、

      ランボーは「酔いどれ船」を携えて上京し、

      ヴェルレーヌの義父母のもとに身を寄せることになった。

      このときランボーは17歳であった。

 

    ヴェルレーヌとベルギー、ロンドン放浪

      1872年、ヴェルレーヌとともにベルギー、ロンドンを放浪した。

      情熱的で波乱に満ちた関係の始まりであった。

 

      だが、「途轍もない通行者」と称されたランボー と違って、

      ヴェルレーヌはパリに妻マチルドと

      息子ジョルジュを置き去りにしていた。

      1872年7月21日、

      ヴェルレーヌからの手紙で彼が

      ブリュッセルにいることを知ったマチルドは

      母親とともに同地に向かった。

      彼を連れ戻すためであった。

 

      二人は2か月にわたってベルギーを放浪した後、

      9月7日にロンドンに向かった。

 

      1872年12月末にランボーは母親の忠告に従って、

      一旦シャルルヴィルに戻った。

      ロンドンに一人残ったヴェルレーヌが

      孤独に苛まれて書いた詩が、

      堀口大學訳

      「巷に雨の降るごとく、わが心にも涙降る」

      で知られる詩である

 

      再び二人の放浪生活が始まった。

 

      だが、二人の生活は結局うまくいかなかった。

      二人の反目は深まるばかりであった。

 

      ヴェルレーヌはランボーとの関係を終わりにして

      妻のもとに帰る決意をしていた。

 

      1873年7月10日、

      ヴェルレーヌは酔った勢いで

      ランボーに向かって拳銃を2発発砲し、

      1発がランボーの左手首に当たった。

      ヴェルレーヌは逮捕され、

      ランボーは弾丸摘出のためにサン=ジャン病院に入院した。

      7月20日に退院したランボーは、

      ロッシュに戻って『地獄の季節』の執筆に専念した。

      

      二人は幾度となく仲違いと和解を繰り返したが、

      ヴェルレーヌにとっては『言葉なき恋歌』(1874年刊行)、

      ランボーにとっては『地獄の季節』(1873年刊行)、

      『イリュミナシオン

      (1886年に一部刊行、没後1895年に全編刊行)

      の制作につながる実りの多い経験であった。

 

    

    1875年以降、ランボーは詩を放棄し、

    各地を放浪しては病に倒れるなどして

    シャルルヴィル(ロッシュ)に戻るという生活を繰り返した。

 

    1876年4月にウィーン、

    5月にブリュッセルを経てロッテルダムに向かい、

    ハルデルウェイクで6か月にわたって

    オランダ領東インドに駐屯する予定の外人部隊に入隊。

 

    1880年5月に再びキプロス島に渡り、

    しばらく土木工事現場で働いた後、

    主に皮革やコーヒー豆を販売する

    現地のマズラン=ヴィアネ=バルデ商事に雇用され、

    アデン(アデン湾に面するイエメン共和国の港湾都市)にある

    代理店に勤務することになった。

 

    1891年11月10日、

    全身転移癌により死去、享年37歳。

 

この言葉は、ヴェルレーヌとの破局後書いた詩集

『地獄の季節』に含まれている、有名な一節。

 

若きランボーの怒りと苦悩・・・・・!

ボーッと青春時代を過ごした私にはピンとこない言葉だが・・・、

人生に苦悩する若者に読んでもらいたい本のようだ!!

 

2024年5月26日

今日は一日、小川下池の堤防草刈りがある。

(役員・総代の16人が参加予定)

 

昨夕、長野の弟が軽トラックを持って来てくれた。

(草刈り用に貸してと頼んでいた)

 

そして働き者の弟が急に、

 「ホタル狩りの邪魔になる」

と言って川岸の草刈りをし始めた。

 

私が軽トラで混合油(草刈り機の燃料)買に行って

帰って来たら道端が草を刈って随分スッキリしていた。

これで道路沿いからもホタル狩りが楽しめる。

(今夜あたりから増えるホタル狩り客にとってもグッド!)

 

6月1日(私の誕生日)が待ち遠しい!!

(弟妹夫婦と姪っ子とたおちゃんも来る予定)