伯母逝いてかるき悼みや若楓

  鑑賞: 季語は「若楓(わかかえで)」で夏。
 
      楓の紅葉も見事だが、若葉青葉も美しい。
 
      句の読みどころは、むろん「かるき悼み」だ。
 
      訃報に接して、しくっと胸に来た。
      だが、それ以上の重い悼みの心は湧いてこない。
      おそらく「伯母」なる人は、長患いだったのだろう。
 
      親類縁者も、
      近い将来にこの日が来ることを予測していたのだと思われる。
      また、彼女の死によって、
      幼い子が遺されるといったような、
      周辺に直接的な不幸の種が芽生える気遣いもなかったのだ。
 
      そして、彼女自身にも死の覚悟ができていることを、
      作者は薄々ながら知っていた。
      だから「ああ、やつぱり……」という気持ちになった。
 
      こうした想像力を読者に呼び覚ます力は、
      すべて「かるき」の措辞にある。      
      しくっとした心に若楓の明るさが染みとおるような句で、
      なまじな追悼句よりも鮮烈ではないか。
 
      ただ、作者にしてみれば、
      発表に際してはよほどの勇気が必要だったにちがいない。
      「かるき悼み」を不謹慎な表現と読むのが、
      世間一般というものの文法であるからだ。
 
      そして俳句は、世間一般に顔を向けている。
      この文法が如何に強力であるかについては、
      読者諸兄姉が先刻ご承知なので、
      いまさらくだくだしく述べる必要はないだろう。
 
      もしも自分が作者と同じような気持ちだったとしたら、
      こんなふうに詠めるだろうか。
      ちょっと想像してみるだけで、作者の勇気が実感される。
      しかも、作句されたのが
      大正四年(1915年)であることを思えば、
      なおさらである。
         『山廬集』(1932)所収。
           (清水哲男)
 
作者の勇気・・?大正四年がどんな年なの気になった。
 
  飯田 蛇笏(いいだ だこつ、1885年- 1962年)
    山梨県出身の日本の俳人。
    高浜虚子に師事、山梨の山村で暮らしつつ格調の高い句を作り、
    村上鬼城などとともに大正時代における
    「ホトトギス」隆盛期の代表作家として活躍した。
 
    1914年(大正4年)には
    『ホトトギス』巻頭3回、翌年には巻頭5回を獲得し、
    名実ともに同誌の代表作家となる。
 
なるほど、そう言うことか・・・・、
むしろ、それ故に詠めたのかもしれない、
自信があったのだ!!
 
2024年5月9日
朝8時30分から公民館清掃の奉仕作業に行く。
私が参加しているヨーガ教室から動員されたのだ。
たぶん1時間ちょっとで終わると思うので、
それから卓球の練習に行くつもりである。
 
午後の集会場でのカラオケは、
”カラオケみっちゃん”ですることになっている。
私は何時ものように酎ハイ1杯を飲むつもりだ!!
(夜はその分減らさねば・・・・・・)
 
練習した次の3曲を歌うつもりである。
 
♩  面影しぐれ・・・・・大川栄策
   比翼の鳥・・・・・・山本譲二
   心機一転・・・・・・辰巳ゆうと ♩