両手で顔被う朧月去りぬ

  鑑賞: よくはわからないけれど、
      しかし、印象に残る句がある。
 
      私にとっては、掲句もその一つになる。
      つまり、捨てがたい。
 
      この句が厄介なのは、
      まずどこで切って読むのかが不明な点だろう。
      二通りに読める。
 
      一つは「朧月」を季語として捉え
      「顔被う」で切る読み方。
      もう一つは「朧」で切って「月去りぬ」と止める読み方だ。
 
      ひとたび作者の手を離れた句を、
      読者がどのように読もうと自由である。
      だから逆に、読者は作者の意図を忖度しかねて、
      あがくことにもなる。
 
      あがきつつ私は、後者で読むことになった。
      前者では、世界が平板になりすぎる。
      幼児相手の「いないいない、ばあ」を思い出していただきたい。
 
      人間、顔を被うと、
      自分がこの世から消えたように感じる。
      むろん、錯覚だ。
      そこに「頭隠して尻隠さず」の皮肉も出てくるけれど、
      この錯覚は根深く深層心理と結びついているようだ。
 
      単に、目を閉じるのとは違う。
      みずからの意志で、
      みずからを無き者にするのだから……。
 
      掲句では、
      そうして被った両手の暖かい皮膚感覚に「朧」を感じ、
      短い時間にせよ、
      その心地よい自己滅却の世界に陶酔しているうちに
      「月去りぬ」となって、
      人が陶酔から覚醒したときの一抹の哀感に通じていく。
 
      私なりの理屈はこのようだが、
      句の本意はもっと違うところにあるのかもしれない。
      従来の「俳句的な」春月を、
      あえて見ようとしない作者多年の
      「俳句的な」姿勢に発していると読めば、
      また別の解釈も成立する。
 
      と、いま気がついて、それこそまた一あがき。
        『東風抄』(2001)所収。
          (清水哲男)
 
朧月・・・春の夜など、ほのかにかすんだ月。
私は前者「朧月」を活かす方が素直だと思うけどなぁ・・・!
  
2024年4月17日
今からコートベール徳島GC(阿南市那賀川町)の
コンペに行ってくる。
 
2023年6月以来だから、
約1年ぶりのコンペになる。
100を切りたいな・・・・?