万能的なのは一心がかたまらぬせいか、

心が籠らないせいか、傑出するには足りなかった。

  それをみると、不器用の一心がかえって

  芸道のことには上達の見込みがあるか。

 

  高村光雲

    日本の仏師、彫刻家。位階は従三位。幼名は光蔵。

    詩人・彫刻家の高村光太郎は長男、鋳金家の高村豊周は三男。

    写真家の高村規(ただし)は孫(豊周の息子)。

 

    江戸下谷(現・台東区)に町人・兼吉の子として生まれる。

    1863年(文久3年)から仏師の高村東雲の元に徒弟となる。

    後に東雲の姉・エツの養子となり、高村姓となる。

 

    明治維新以後は廃仏毀釈運動の影響で、

    仏師としての仕事はなく、

    輸出用の象牙彫刻が流行したために木彫も衰え、

    光雲自身の生活も苦しかった。

 

    そのような中で光雲は木彫に専念、

    積極的に西洋美術を学び、

    衰退しかけていた木彫を

    写実主義を取り入れることで復活させ、

    江戸時代までの木彫技術の伝統を

    近代につなげる重要な役割を果たした。

 

    1889年(明治22年)から東京美術学校に勤務、

    翌年に彫刻科教授、

    同年10月2日、帝室技芸員に任ぜられる。

 

    1926年(大正15年)に東京美術学校を退職し、名誉教授。

 

    1934年 死去。満82歳。

 

    代表作

     ●老猿(東京国立博物館蔵)

         1893年(明治26年)シカゴ万博出品作。木彫。

        国の重要文化財に指定。

     ●西郷隆盛像(上野恩賜公園)

        1897年(明治30年)に完成し、翌年除幕式が行われた。

        傍らの犬は後藤貞行の作。

     ●楠公像(皇居前広場)

        住友家が別子銅山(愛媛県)の

        開坑200年を記念して東京美術学校に製作を依頼し、

        宮内省に献納したもの。

        光雲が製作主任となり、

        主に楠公(楠木正成)の頭部を担当。

        体部は山田鬼斎と石川光明、馬は後藤貞行、

        鋳造は岡崎雪聲が担当した。

        銅像の台座の銘板には「明治30年」とあるが、

        原型(木造)は1893年(明治26年)に完成している。

     ●山霊訶護(宮内庁蔵) - パリ万博出品作。

     ●矮鶏置物(ちゃぼおきもの)(宮内庁蔵) - 1889年矮鶏置物

 

  高村光雲は「芸術家」なのか「職人」なのか。

  美術史的に評価が分かれるのはもちろんだが、

  当の光雲も同じく悩んでいたようで、

  上記の言葉はそんな呻吟が生々しく伝わってくる。

 

 光雲が悩んだ理由は

  ●作品のすべてが注文制作されたもの

  ●ほとんどは工房として門弟とともに、

   あるいは門弟らが光雲に代わって手掛けたもの

 だったからであろう。

 

 息子の光太郎は以下のように記している。

  「徳川末期明治初期にかけての典型的な職人であった。

   いはゆる木彫師であった。

   もっと狭くいえば佛師屋であった」

 

  「明治初期の衰退期に彫刻の技術面に於ける本質を、

   父の職人気質が頑固に守り通して、

   どうやらその絶滅を防いだことになる。

   彫刻の技術上の本質については無意識のうちに

   父は傳統の橋となった」

 

 「父の作品にはたいしたものはなかった。

  すべて職人的、佛師屋的で、又江戸的であった」

 

息子の言葉が父光雲の人生を物語っているようで・・・、

間違いなく芸術家の親子だと私は思う!!

 

2024年3月16日

午前中は令和5年度の小川下池水利組合総会の資料作成。

 ●収支決算書

 ●定期内訳内訳

 ●財産目録

 ●現金出納帳

 

午後は、

役員報酬+作業手当(8名)、

池守手当+作業手当(2名)、

作業手当(13名)をそれぞれに手渡す。

 

半分近くの人は住宅地図を見ながらになるので、

電動自転車で廻るつもりである。

(フル充電で20kmほど・・・大丈夫かな?)