勘ですよ、

YAZAWAの勘。

 

  矢沢永吉

    日本のロックミュージシャン。

 

    母親は永吉が3歳の時、夫と息子を捨てて蒸発。

    広島で被爆した父親とは小学校2年生の時に死別。

 

    このため幼少期は親戚中をたらい回しにされ、

    その後は父方の祖母に育てられ、

    極貧の少年時代を過ごした。

 

    この頃、近所の裕福な家の子供に

    「お前の家は貧乏でケーキなんか買えないだろう」

    とケーキの一部を顔に投げつけられるなどのいじめを体験した。

    このような経験が積み重なり

    「BIGになる」との思いが芽生えたと語っている。

 

    矢沢は

     「晴れた日に海を見ていると広島を思い出すよ。

      やたら天気よくてね。

      広島ってヤクザとか原爆とか色々言われるけど、

      ボクにとっては一地方都市ね。

      悲しいことも楽しいこともあるけど、全部含めてね、

      淋しかーったって記憶しかないね。

      広島にいた子供の頃って、一人だったなって記憶しかない。

      かき氷が食いたかったけど、食えなくて、

      水だけジャブジャブ飲んでた。

      そんなことしか覚えてないよ」

    などと述べている。

 

    当時のモータリゼーションもあって、

    将来は板金工になって金を稼いでやろうと考えていたが、

    中学時代、

    ラジオから流れるビートルズを聴いてロックに目覚め、

    さらにザ・ベンチャーズの広島公演に行ったことで感化され、

    スターになることを夢見るようになる。

 

    横浜へ~キャロル結成

      広島電機大学付属高校(広島国際学院高校)卒業と

      同時に卒業証書を破り棄てて、

      スーパースターになることを夢見て、

      トランクとギターとオリジナル曲を書いた譜面と

       アルバイトで貯めた5万円を持って、

      広島から最終の夜行列車で上京する。

 

      東京駅へ向かうはずだったが、

      長時間の移動で尻が痛くなったのと、

      ザ・ビートルズの出身であるリヴァプールと

      横浜が同じ港町だったことから、

      反射的に横浜駅で途中下車、

      洋食レストラン「梅香亭」(伊勢佐木町)や、

      チャイナタウン、喫茶「タクト」(日ノ出町)などで

      働きながらバンド活動を始める。

 

      1972年、

      矢沢が貼紙チラシで募集をかけ、ジョニー大倉・

      内海利勝・ユウ岡崎らと6月、

      ロックバンドキャロルを結成。

      ボーカルおよびベースギターを担当。

 

      当時は歌謡曲とフォークが中心で、

      ロックバンドが商業的に受け入られなかった音楽界に

      突如として現れ人気を博した。

      活動は短期間であったが、

      後の日本のロックシーンに大きな影響を与えた。

 

      1975年、

      解散が決定的になった頃、

      矢沢はソロ活動を行う際にフォノグラムとの間に

      起こり得る問題を未然に防ぐため、

      単身CBS・ソニーに行き、

      幹部と面会して自らのソロ活動を担保とした

      金銭面・ビジネス面の話をまとめている。

 

    ソロ活動

      当時を振り返って矢沢は

       「キャロルからソロになった時は燃えました。

        雷のように熱かった。

        自分なりに2年半キャロルやって、

        芸能界の仕組みというのが分かったから、

        なまじ中途半端に名前があると、

        かえってそれをぶち抜くくらいのパワーがいる。

        名前があった方が不利だと思っていたね、あの頃は」

      などと述べている。

 

      ファンにはキャロル時代の

      『ファンキー・モンキー・ベイビー』のような曲調が求められ、

      アルバム『I LOVE YOU, OK』は不評。

        「お前のロックはもう死んだ」

        「女みたいな歌を歌うな」

      などと散々叩かれた。

 

      矢継ぎ早にライブツアーを重ねることで、

      ソロデビューから1年ほどで

       "元キャロルの矢沢"でなく"ソロシンガー矢沢"

      として急速に認知を広めていく。

      作品も1作ごとに新たな挑戦を試み、

      ライブの動員も着実に増えていった

             

      1978年、

      CMソング「時間よ止まれ」が大ヒット、

      累計売上はミリオンセラーを記録した。

  

      1980年代に入ると黄金期を迎え、

      売り上げ・動員数、

      共にロックスターとしての地位を磐石にする。

      海外市場に活路を求め、アメリカ西海岸に活動の拠点を移し、

      現地のプロデューサーやドゥービー・ブラザーズなどの

      ミュージシャンを起用したアルバムを

      何作か世界・全米で発売する。

 

      2023年

      7月28日、

      FUJI ROCK FESTIVAL'23に初出演。

      “GREEN STAGE”にて8曲を披露した。

      12月14日、

      全国アリーナツアー

      『EIKICHI YAZAWA CONCERT TOUR 2023

       「Welcome to Rock’n’Roll」』

      東京4Days初日公演を日本武道館にて開催。

      前年2022年に喉の不調で断念した

      日本武道館公演通算150回を、

      本公演を以って達成した。

 

      矢沢は重要な収入源となる

      音楽著作権を自らの手で管理。

      ライブを何よりも重視し、

      徹底した自己プロデュースで

      「YAZAWAブランド」を確立させ、

      タオルやグッズ販売にも力を入れた。

 

      当初は

      「守銭奴」と揶揄する声も少なくなかったというが、

      現在はそれが音楽界の主流となっている。

 

  この言葉は2018年に当時68歳の矢沢が

  インタビューで語ったものである。

 

    矢沢は東京ドームや京セラドーム大阪などを巡る

    大規模ライブツワーを発表し、

    それと同時にチケットの「完全電子化」を宣言した。

 

    若いバンドや歌手のライブでも紙のチケットが多いなか、

    古稀も近い大ベテランが完全デジタル化に乗り出した。

    そして踏み切った理由として、

      「勘ですよ、YAZAWAの勘」

    と説明したのである。

 

”YAZAWAの勘”は

お金に苦労した少年時代の経験からなのかも・・・・?

 

2024年3月13日

先日長野の弟が畑を耕して、

軽トラ1杯の堆肥を蒔いて地ごしらえをしている。

今日は朝から夫婦でジャガイモやスナップ豌豆などを

植えつけるようだ。謝謝!!収穫はお任せを!

 

春節で大連から帰国した妻は、

庭の西側に作った竹垣(幅5m,高さ1m)を気に入ってくれた。

しかし、今度は竹垣のない箇所が気になってきて、

道から丸見えだから木でも植えてと言い出した。

 

弟が田んぼをしてる間、遊んでいる訳にもいかないので、

5,6本の南天を掘り起こして、

写真右端の李桃の木まで、川沿いに移植することにした。

(南天は常緑樹だから都合がよい)

 

どのぐらい掘ったらいいのかなぁ・・・・・?

上手く根付いてくれるとよいのだが!!