芸術作品はルールを作るが、

 ルールは芸術作品を作らない。

 

  クロード・ドビュッシー

    フランスの作曲家。長音階・短音階以外の旋法と、

    機能和声にとらわれることのない

    自由な和声法などを用いて作曲し、

    その伝統から外れた音階と和声の用い方から、

    19世紀後半から20世紀初頭にかけて

    最も影響力を持った作曲家の一人。

 

    1872年10月22日、10歳でパリ音楽院に入学する。

    この時の合格者はドビュッシーを含むわずか33名であった。

    1年後、エルネスト・ギロー(作曲)、

    オーギュスト・バジュ(ピアノ伴奏法)、

    アントワーヌ・マルモンテル(ピアノ)、

    エミール・デュラン(作曲)、

            アルベール・ラヴィニャック(ソルフェージュ)らに学ぶ。

 

    1874年に学内のコンクールにおいて

    ショパンのピアノ協奏曲第2番の第1楽章を弾いて

    第2次席賞を獲得。

    翌1875年にショパンの『バラード第1番』で第1次席賞を得るが、

    1876年には獲得できなかった。

 

    初期の作品であるカンタータ『選ばれし乙女』(1888年)や

    『ボードレールの5つの詩』(1889年)までは

    ワーグナーの影響を見ることができる。

    しかしこの頃の作品、

    特にヴェルレーヌと出会って以降の3つの歌曲、

    『忘れられたアリエッタ』、『華やかな饗宴』第1集などでは、

    より明確に独自の書法へと変化していった。

 

    弦楽四重奏曲ト短調(1893年)においては

    フリギア旋法だけではなく、様々な教会旋法を使用している。

    なかでも『牧神の午後への前奏曲』(1894年)、

    メーテルリンクの戯曲による

    オペラ『ペレアスとメリザンド』(1893年頃着手、完成は1902年)など

    同時代の作品から現れた全音音階の使用は、

    その後の独特のハーモニーの基盤ともなっている。

 

    また、これらの作品は規則的な律動にとらわれない書法の先駆けでもあり、

    それまでの西洋音楽の概念からは異色ともいえるものだった。

 

    ドビュッシーの音楽は、

    代表作『海』や『夜想曲』などにみられる

    特徴的な作曲技法から「印象主義音楽(印象派)」と

    称されることもある。

 

    人物

      気難しい性格で、内向的かつ非社交的であった。

      音楽院に入学してからは伝統を破壊しかねない

      言動(不平不満や文句)をしていたため、

      ギローなど担当教師らを困らせていた。

      また、女性関係においてのトラブルも絶えなかった。

 

  ドビュッシーは他の芸術家に影響を与えたり、

  新しい傾向の音楽を生み出したりして、

  芸術がルールを作ることはあっても、

  あらかじめ何らかのルールがあって

  そこから芸術が生まれるということはないと

  信じていた。

 

クラシックに興味がないので評価できないが、

この言葉を実践した人に間違いないようだ!!

 

2024年3月7日

昨夜は飲んで食べてトランプゲーム”大貧民”で、

爺・婆が年甲斐もなく盛り上がった。

手羽先の塩焼き、手羽中の炒め煮、鰺フライ、ビーフシチュウ、

ササミの辛味噌和え、枝豆、ポテト、チャーハン

 

朝食は釜揚げうどん(藤麺の半生うどんで)と

昨夜の残りを食べてもらうつもりである。

 

四国別格20霊場巡拝は高知・愛媛の11カ寺を済ませたようで、

今日は9時に家を出て徳島の2カ寺(鯖大師・慈眼寺)を参拝して、

大阪に帰る予定のようだ!

 

私は午前中は卓球の練習。

 

午後は

新入社員として配属された職場の先輩たちの集まり

(徳島県小松島市にある”喫茶やま”のお茶会)参加する。

皆に会うのは?十年ぶりである。