低級な芸術家たちは、

常に他人の眼鏡をかける。

 

  オーギュスト・ロダン

    フランスの彫刻家。

    19世紀を代表する彫刻家とされ、

    「近代彫刻の父」と称される。

    代表作に『地獄の門』、

    その一部を抜き出した『考える人』など。

 

    パリ在住の労働者階級の子として生まれた。

    父ジョアン・バティスタは警察に雇われる事務員で、

    オーギュストは妻マリーとの間に生まれた

    2人目の子供だった。

 

    ロダンはエコール・デ・ボザールなどの

    美術の専門教育(アカデミズム)を受けず、

    特に青年期以降はほとんど独学で

    彫刻を習得したことで知られている。

 

    本人の談によれば、

    10歳の時に初めて絵を描いたことで美術に興味を持ち、

    14歳の時に地元のプティット・エコール(小さな学校)

    と呼ばれる工芸学校に入校した。

    子供達に絵画やデッサンを教えていた

    ルコック・ボードランという教員は

    ロダンを最初に評価した人物で、

    後年にロダンは感謝の言葉を残している。

 

    プティット・エコールを退学した直後、

    ロダンは学業継続を望んで

    エコール・ボザール(グラン・エコール)に入学を志願した。

    ロダンは同窓生をモデルにした塑像を提出したが、

    ボザールからの評価は不合格だった。

    諦めずに翌年と翌々年も塑像を提出し続けたが、

    ボザールからは全く相手にされなかった。

    

    1863年、

    ボザール入学を果たせなかったロダンに

    追い討ちをかけたのが姉マリアの死だった。

    姉の後を追うように

    修道院に入会したロダンは修道士見習いとして、

    美術から神学へと道を変えようとした。

    だがロダンの指導を任されたピエール・ジュリアン司教は

    彼が修道士に不向きだと判断して、

    美術の道を続けるように諭した。

 

    修道会を離れたロダンは動物彫刻の大家であった

    アントワーヌ=ルイ・バリーに弟子入りして、

    深い影響を受けた。

    また24歳の時には生涯の妻となる裁縫職人のローズと知り合い、

    長男オーギュスト・ブーレ・ロダンをもうけているほか、

    装飾職人としての労働も再開した。

 

    1875年、職人の親方との関係が悪化したこともあり、

    ベルギー滞在中に生活費を節約して

    貯蓄を続けていたロダンはローズを連れて、

    念願のイタリア旅行へと出かけていった。

    そこで目の当たりにした

    ドナテッロとミケランジェロの彫刻に衝撃を受けたロダンは、

    多大な影響を両者から受けることになった。

 

    ベルギーに戻ったロダンは

    早速イタリア旅行で得た情熱を糧に『青銅時代』を製作、

    十数年ぶりに彫刻家として活動を開始した。

 

    彫刻家ロダン

      この『青銅時代』は

      オーギュスト・ネイトという人物を

      モデルにした等身大の男性像で、

      極めて緻密でリアルな作品であった。

      ところがそのあまりのリアルさのために

      「実際の人間から型を取ったのではないか」

      との疑いをかけられ、

      憤慨したロダンは2年後に

      人間よりもかなり大き目のサイズの彫刻を新たに作った。

      型を取ったのではなかったと分かった審査員たちは、

      ロダンの彫刻に対して賞賛の言葉を送り、

      ロダンの名は一気にフランス中に広まった。

 

      1880年、ロダンの元に、国立美術館を建てるので、

      そのモニュメントを作ってほしいとの依頼が来た。

      そのテーマとしてロダンが選んだのが

      ダンテの『神曲』地獄篇に登場する『地獄の門』である。

 

      ロダンはこの大作品に取り組むに当たり、

      粘土や水彩画などでデッサンを重ねていったが、

      中々構想はまとまらなかった。

 

      この悩める時期に教え子のカミーユ・クローデルと出会い、

      この若き才能と魅力に夢中になった。

      だが優柔不断なロダンは、

      カミーユと妻ローズの間で絶えず揺れた。

 

      ロダンはローズの元に逃げ帰り、

      ショックを受けたカミーユは以後、

      徐々に精神のバランスを欠き、

      ついには精神病院に入院、

      死ぬまでそこで過ごすことになる。

 

      1888年、美術館の建設計画は白紙に戻り

      (予定地だった所には現在はオルセー美術館が建っている)、

      ロダンに『地獄の門』の製作中止命令が届くが、

      ロダンはこれを断り、

      金を払って『地獄の門』を自らの物とし、制作を続けた。

 

      そして1889年、

      『地獄の門』を覗き込む男を一つの彫刻として発表した。

      はじめこの彫刻には

      「詩想を練るダンテ」と名づけられていたが、

      発表するときは「詩人」と名づけられた。

      この像は誰を表しているのか、

      ダンテであるという説もあるが、

      ロダン自身であるという説もある。

 

      その姿は地獄の中を覗き込み、

      苦悩している姿であり、

      その地獄の中にはカミーユ、ローズとの間に出来た息子

      (この子のことをロダンは認知せず、世間にも隠していた)

      の姿がある。

 

      なお『考える人』という名は

      この像を鋳造したリュディエが付けたものである。

 

    1917年、ロダンは死期の迫ったローズと遂に結婚の手続きをした。

    ロダン77歳、ローズ73歳であった。

    その16日後にローズは死去し、

    さらに9ヵ月後の11月17日にロダンも死去した。

 

    ロダンの末期の言葉は

    『パリに残した、若い方の妻に逢いたい。』

    だった。

 

    結局『地獄の門』は未完に終わった。

 

一般的にこの言葉は、

「二流・三流の芸術家は常に他人の評価を気にする」

と解釈される。

 

ロダンは独創性の強い作品を発表したが、

認められず希望した美術学校を三度も落第した。

 

しかし他人に否定されたからといって、

安易に自己否定に向かってはいけない、

より高いもの参考にしながら、

学んでいくべきであると・・・・!

 

挫折を経験した天才から

悩めるクリエーターへの励ましの言葉である。

 

静岡美術館(2021年10月)

 

静岡の衣伽ちゃん(当時2ヶ月)に会えた!

大きくなってる(1歳5ヶ月)、また会いに行くけんね・・・・!!

 

2024年2月4日

立春(りっしゅん)は、二十四節気の第1。

  冬が極まり春の気配が立ち始める日。

  『暦便覧』には

   「春の気立つを以って也」と記されている。

  冬至と春分の中間に当たり、

  昼夜の長短を基準に季節を区分する場合は、

  この日から立夏の前日までが春となる。

 

午前中は確定申告書を作成する。

例年数万円の還付があるが・・・、

令和5年は医療費控除があるので増額かも・・・?

 

昨日カッパを着て風呂の天井掃除をした。

明後日6日に帰国する妻が汚れていない天井を見て、

どんな反応をしめすか・・・・?