才能ある若手こそ、

  挫折を経験させなければならない。

挫折はその選手を

  成長させる最大の良薬なのだから。

 

  ヨハン・クライフ

    オランダ出身のサッカー選手、サッカー指導者。

    選手時代のポジションはフォワード、ミッドフィールダー。

 

    リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術

    「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり、

    選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、

    オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などから

    バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。

 

    1947年4月25日、

    アムステルダムの東部にあるベトンドルプという労働者の住む街で、

    青果店を営む家庭の次男として生まれた。

 

    家庭は貧しく、日頃の生活に窮していたが、

    仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と

    毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた。

 

    少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所に

    アヤックスのホームスタジアムや施設があり、

    頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられ、

    マスコットのような存在になった。

 

    10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した。

 

     1959年7月8日、12歳の時に45歳の父が心臓発作により死去。

    クライフは精神的なショックを受け、

    クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、

    架空の対話を通じて父の魂とともにあり

    見守られているのだと確信していたという。

 

    この時期にプロテスタント系の小学校を卒業後に

    地元の4年制の中学校へ進学したが、勉学には不熱心であり、

    2年時に中退し、スポーツ用品店の店員を務めながら

    アヤックスの下部組織でプレーを続けた。

 

    15歳でユースチームに昇格したが、

    当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた。

    一方、持ち前の突破力を生かしてセンターフォワードとして

    1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し、

    1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした。

 

    選手としての成功

      16歳の時に1964年に

      トップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、

      小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、

      契約金1500ギルダー(約15万円)、

      年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ。

      クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では

      1954年からプロ契約が認められ、

      クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると

      国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが、

      この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だった

      オランダサッカー界において2人目の事例である。

 

確かに才能ある若者は挫折を良薬とすることができるのだろう!!

 

しかし最近は挫折や誹謗中傷で死を選ぶケースが多発している。

そして才能ある歌舞伎役者でさえも・・・・。

 

人々の生活は昭和に比べ豊かになっているはずなのに、

世の中(人も)が冷たくなっているせいなのかなぁ・・・?

 

2023年7月22日

朝6時から茅を刈り取りに行ってきた。

 

明日、夏越祭(7月30日)用の茅の輪を作る予定である。

 

四国地方も昨日梅雨明けし、日差しも強くなったように感じる。

午後の散歩は危険なので、

庭の草刈りをするつもりだ。

草刈り機なので1時間ぐらいで終わるだろう!