自分が自分に
「よくやっている」って思ったら、
その時はもう終りが近いってことだ。
中田英寿
山梨県甲府市出身の元プロサッカー選手、実業家。
現役時代のポジションはミッドフィールダー。
元日本代表。
小学3年生、8歳のときに兄の影響で
北新サッカースポーツ少年団に入団してサッカーを始めた。
甲府市立北中学校3年生のとき、
U-15(15歳以下日本代表)に選抜された。
U-16アジアユースで世界への第一歩を踏み出して以後は、
全ての年代別日本代表に選出され、
年代別の世界大会である
U-17世界選手権、U-19アジアユース、
ワールドユース、オリンピック(23歳以下)には
全て「飛び級」で出場した。
オリンピックには19歳でアトランタオリンピック、
23歳でシドニーオリンピックと、2回出場している。
Jリーグに加盟する全12クラブ(当時)のうち
11クラブからオファーを受け、
その中から横浜マリノス、横浜フリューゲルス、
ベルマーレ平塚の練習に参加した上で、
1995年ベルマーレ平塚に加入。
1996年アトランタ五輪に出場し、
後に「マイアミの奇跡」といわれる
ブラジル五輪代表戦勝利に貢献した。
同年のシーズンオフに、
イタリア・セリエAの名門ユヴェントスへ短期留学。
期待したトップチームではなく下部での練習であったが、
海外に目を向けていることを窺わせた。
「平塚に行って良かったと思っています。
平塚でプロを始めたから今がある。
ペルージャに行くときにも、
本当に気持ちよく送り出してくれた。」
と語っている。
1997年に韓国との親善試合でフル代表に初招集され、
先発デビューを飾る。
以後、レギュラーに定着し、
W杯アジア最終予選で苦しむフル代表を
W杯初出場へと導く原動力となった。
日本代表の初出場となった1998年フランスW杯では、
チームの核としてグループリーグ全3試合にフル出場。
中田のプレーは海外のクラブに認められ、
W杯後獲得に名乗りをあげたクラブは12にのぼった。
同年7月、
21歳でイタリアのセリエA・ペルージャへ
移籍金470万ドルで完全移籍した。
ペルージャ時代
1998-1999シーズン開幕戦で、
ジネディーヌ・ジダンを擁する強豪ユヴェントスFCから
2ゴールを奪うセンセーショナルなデビューを飾ると、
年間10得点(うちPK4得点)をあげるという
ミッドフィールダーとしての当時の
日本人海外リーグ最多得点記録を打ち立て、
イタリアの有力スポーツ誌
グエリン・スポリティーボが選出する
セリエA初年度の外国人選手を対象にした
セリエAサプライズ賞に選ばれた。
1999-2000シーズン開幕前には
中田に興味を示す欧州のクラブが続出したが、
ペルージャが移籍金を釣り上げたため契約には至らなかった。
ローマ時代
シーズン途中に1600万ドルで名門ASローマへ移籍。
当初はボランチで起用されることが多く、
フランチェスコ・トッティが欠場した時などに
従来のポジションであるトップ下で出場した。
2000-2001シーズン、
外国人枠の関係で、
開幕から首位を独走するローマでは
ベンチを温める日々が続いた。
スタメン出場も僅か5試合に留まった。
ユベントスと優勝を争う中での
直接対決となった第29節のユヴェントス戦、
0-2とリードを許す中、トッティとの交代で途中出場、
ミドルシュートでゴールを決めると、
再び鋭いミドルシュートを放ち、
ファンデルサールが弾いた所を
ヴィンチェンツォ・モンテッラが詰めてゴールを奪い、
2-2の引き分けに持ち込んだ。
この引き分けが大きく物を言い、
日本人選手として初めてセリエA優勝メンバーとなった。
2000年シドニーオリンピックでは
U-23代表の一員として決勝トーナメント進出に貢献したが、
アメリカ戦でPK戦の4本目を失敗し、
チームはベスト8で大会を去ることになった。
パルマ時代
2001年、
パルマは獲得を目指していたルイ・コスタが
ACミランに移籍した事もあり中田を獲得。
移籍金は当時アジア人選手最高額の約33億円にのぼった。
トップ下でプレーしたが、
高額な移籍金に見合うパフォーマンスを発揮したとは言いがたく、
チームの成績も振るわなかった。
25歳で記念すべき地元開催となった2002年日韓W杯に出場。
精神的にもチームを牽引する中心選手として、
グループリーグ3試合、
決勝トーナメント1試合の全試合に出場した。
グループリーグのチュニジア戦では、
ヘディングで自身のW杯初ゴールを記録した。
ボローニャ時代
2003 - 04シーズン冬の移籍市場で、
中田に信頼を寄せるマッツォーネ監督率いる
ボローニャへ半年間のレンタル移籍を決断する。
センターハーフを任された中田は、
移籍初戦と次節の2試合連続のアシストによって
チームメイトの信頼を得た。
以後、セリエAと日本代表の全試合に
フル出場する過密日程をこなし、
サッカー選手の職業病ともいえる
グロインペイン症候群(鼠径部痛症候群)を発症するが、
ボローニャのセリエA残留に貢献して恩師の期待に応えた。
2004-05シーズン直前にACFフィオレンティーナへ完全移籍。
シーズン前の合宿までの2か月あまり、
日本でグロインペインの治療に専念した。
しかし、低調なプレーに終始して現地ファンに酷評され、
クラブと日本代表の両方の出場機会を失った。
ボルトン時代
2005年、7年間過ごしたイタリアを離れ、
28歳でイングランド・プレミアリーグの
ボルトン・ワンダラーズにレンタル移籍。
加入後すぐにレギュラーを掴んだ。
ウェスト・ブロムウィッチ・アルビオン戦で、
フリーキックからプレミアリーグの初ゴールを記録する。
2006年6月、
29歳で自身3大会連続3度目となるドイツW杯の
グループリーグ全3試合にフル出場。
1分2敗で決勝トーナメントには進出できなかった。
ブラジル戦では力の差を見せつけられ、
疲弊させられて手も足も出ない状況に陥るが、
試合終了の笛が鳴るまで走り抜き、ピッチに倒れた。
そこから立ち上がってセンターサークルへ行くと
仰向けに倒れ込んだ。
引退ーフリーランス
2006年7月3日、自身の公式HP上で引退を表明。
「あらゆる人に、できるだけ同時にニュースが伝わる
タイミングを狙った(次原談)」
との理由で日本時間21時の発表となった。
以後は世界各地を旅しており、
見聞を広めながら自分にできることを
探したいという趣旨の発言をしている。
また、サッカーの恩恵に感謝しており、
「今後の発展を願っているし、貢献もしたい」
と繰り返し語っている。
この言葉は、
まさに中田英寿のサッカー人生そのものである。
サッカーをプレーするのは好きだが、
観るのは嫌いだという中田。
ワールドカップシーズンになると
FIFAがチケットを手配してるくれるそうだが、
「観に行かないからいらない」
と断っているという。
昨年のワールドカップで、
日本の活躍をどう思っているのだろうか・・・?
2023年1月15日
左義長(さぎちょう、三毬杖)
小正月に行われる火祭りの行事。
地方によって呼び方が異なる。
1月14日の夜または1月15日の朝に、
刈り取り跡の残る田などに長い竹を3、4本組んで立て、
そこにその年飾った門松や注連飾り、
書き初めで書いた物を持ち寄って焼く。
その火で焼いた餅
(三色団子、ヤマボウシの枝に刺した団子等
地域によって違いがある)を食べる。
また、注連飾りなどの灰を持ち帰り自宅の周囲にまくと、
その年の病を除くと言われている。
また、書き初めを焼いた時に炎が高く上がると、
字が上達すると言われている。
道祖神の祭りとされる地域が多い。
民俗学的な見地からは、
門松や注連飾りによって出迎えた歳神を、
それらを焼くことによって炎と共に
見送る意味があるとされる。
とんど(歳徳)、とんど焼き、どんど、
どんど焼き、どんどん焼き、どんと焼き、さいと焼き、
おんべ焼き等とも言われる。
寺社が主体となって行われる場合には、
お焚き上げ(おたきあげ)・焼納祭(しょうのうさい)と
呼ばれたりする。
朝8時から氷上八幡神社でお焚き上げの準備がある。
氏子が持ち込んでいる注連縄などから、
針金などの燃えないものを取り除く。
9時から焼納祭の神事のあと、お札などと一緒にお焚き上げする。
その火で竹串に刺したミカンをを焼いて参拝者に振る舞う。
(橙(みかん)は代々続くようにと子孫繁栄を願った物)
正月気分も今日で終わり、
この一年が健康ですごせますように!!