ひとつの道を私は行かねばならぬ。

僕の音楽は、僕の苦悩から生まれるのだ。

  人間はボールのようなものだ。

 偶然と情熱とが、それを転がして遊ぶ。

 

  フランツ・ペーター・シューベルト

    シューベルトはウィーン郊外の

    リヒテンタールで生まれた。

 

    フランツは5歳のときに父から普通教育を受け始め、

    6歳のときにリヒテンタールの学校に入学した。

    このころ、父は末息子のフランツにヴァイオリンの初歩を、

    また長男イグナーツにピアノを教え始めた。

 

    フランツは7歳ごろになると

    父の手に余るほどの才能を発揮し始めたため、

    父はフランツをリヒテンタール教会の

    聖歌隊指揮者ミヒャエル・ホルツァーの指導する

    聖歌隊に預けることにした。

 

    聖歌隊の仲間たちは、

    フランツの音楽的才能に一目を置いた。

 

    しばしば聖歌隊の建物に隣接する

    ピアノ倉庫にフランツを案内して、

    ピアノの練習を自由にできるように便宜を図った。

    そのおかげで、

    貧しい彼には触れられなかったような良質な楽器で

    練習、勉強をすることができた。

 

    1808年10月、

    フランツはコンヴィクト(寄宿制神学校)の奨学金を得た。

    その学校はアントニオ・サリエリの指導の下にあり、

    ウィーン楽友協会音楽院の前身校で、

    宮廷礼拝堂コーラス隊養成のための特別教室をもっていた。

    ここにフランツはおよそ17歳まで所属。

 

    フランツを支えた友人たちの多くはこの当時の同級生で、

    貧しいフランツを助け、彼には買えない五線紙など、

    誠実な支持と励ましを与えた。

    また、このコンヴィクトでモーツァルトの序曲や交響曲、

    それらに類した作品や小品に初めて出会った。

 

    1813年の終わりにシューベルトは、

    変声期を経て合唱児童の役割を

    果たせなくなったためコンヴィクトを去り、

    兵役を避けるために父の学校に教師として就職した。

 

    1816年

    シューベルトは貧しかった。

    それというのも教師を辞めたうえ、

    公演で稼ぐこともできなかったからである。

    しかも、音楽作品を

    ただでももらうという出版社はなかった。

 

    しかし、友人たちは真のボヘミアンの寛大さで、

    ある者は宿を、ある者は食料を、

    他の者は必要な手伝いにやってきた。

    彼らは自分たちの食事を分け合って食べ、

    裕福な者は楽譜の代金を支払った。

 

    1818年は前年と同様、

    創作上は比較的実りがなかったものの、

    2つの点で特筆すべき年だった。

    1つ目は作品の公演が初めて行われたことである。

    2つ目は初めて公式の招聘があったことである。

    これは、ツェレスに滞在する

    ヨハン・エステルハージ伯爵一家の音楽教師の地位で、

    シューベルトは夏中、楽しく快適な環境で過ごした。

 

    友人のフォーグルが1821年2月8日に

    ケルントナートーア劇場で『魔王』を歌い、

    ようやくアントン・ディアベリ(作曲家・出版業者)が

    シューベルトの作品の取次販売に同意した。

    作品番号で最初の7曲(すべて歌曲)が

    この契約に従って出版された。

 

    1822年にカール・マリア・フォン・ウェーバー、

    そしてベートーヴェンと知り合う。

    ベートーヴェンはシューベルトの才能を認めていた。

    シューベルトもベートーヴェンを尊敬した。

 

    1827年にグラーツへ短い訪問をしていることを除けば、

    1826年から1828年にかけてウィーンに留まった。

    その間、たびたび体調不良に襲われている。

 

    1827年3月26日、

    ベートーヴェンが死去し、

    シューベルトは葬儀に参列した

    (ウィーン市民2万人の大葬列の中の一人)。

    その後、友人たちと酒場に行き、

    「この中でもっとも早く死ぬ奴に乾杯!」

    と音頭をとった。

    このとき友人たちは一様に大変不吉な感じを覚えたという。

    そして、彼の寿命はその翌年で尽きた。

 

    1828年、

    11月14日になると病状が悪化して

    高熱に浮かされるようになり、

    同月19日に兄フェルディナントの家で死去した。31歳没。

    フェルディナントが父へ宛てた手紙によると、

    死の前日に部屋の壁に手を当てて

     「これが、僕の最期だ」

    と呟いたのが最後の言葉だったという。

 

    彼の遺言によって

    尊敬するベートーヴェンの墓の横に埋葬された。

 

    シューベルトの死因については、

    死去した年の10月にレストランで食べた

    魚料理がもとの腸チフスであったとも、

    エステルハージ家の女中から感染した

    梅毒の治療のために投与された水銀が体内に蓄積、

    中毒症状を引き起こして死に至ったとも言われている。

 

  小柄で体型もルックスも恵まれているとはいえず、

  女性に対しては奥手で浮いた話もほとんどなかった。

  さらに、25歳で当時不治の病だった梅毒になり、

  健康まで失ってしまう。

  以後、シューベルトは身体の不調と

  迫りくる「死」に苦悩しながら作曲活動を続けた。

   

  この言葉には、  

  苦しみの果てにたどり着いた境地と

  音楽への情熱が秘められている。

 

クラシック音楽にあまり興味が無く、

以下の曲名を聞いたことがある程度である。

  『未完成交響曲』(D759)

  『冬の旅』(D911)

  『ピアノとヴァイオリンのための幻想曲』(D934)

 

  シューベルトの1000近いスケッチ、未完を含む作品群は、

  オーストリアの音楽学者オットー・エーリヒ・ドイチュにより

  1951年に作られた英語の作品目録の

  ドイチュ番号によって整理されている。

 

2022年10月7日

自転車はやはりパンクをしていた。

自転車店へは歩いて行くつもりだったが、

卓球マダムが丁度車で行く用事があるというので、

乗せてもらったので助かった(ダイエットにはならず?)。

 

午前中はゴルフの練習。

 

中国の成都で開催されている世界卓球(団体)のため、

私にしては夜更かし(通常21時就寝)が続いている。

今夜女子はドイツとの準決勝で、

勝てば決勝で中国と対戦(9日)することになるだろう!

男子は準々決勝でポルトガルと対戦する。

ガンバレ日本!!

 

大連駐在の妻は卓球に興味が無いようだが、

日中対決の決勝戦ぐらいは見てよね!