司令官たるもの
前線で指揮を執れ。
エルヴィン・ヨハネス・オイゲン・ロンメル
ドイツの軍人。最終階級は陸軍元帥。
第二次世界大戦のフランスや北アフリカでの
戦闘指揮において驚異的な戦果を挙げた、
傑出した指揮官として知られる。
広大な砂漠に展開されたアフリカ戦線において、
巧みな戦略・戦術によって
戦力的に圧倒的優勢なイギリス軍をたびたび壊滅させ、
敵対する側の英首相チャーチルをして
「ナポレオン以来の戦術家」とまで評せしめ、
アフリカにおける知略に富んだ戦いぶりによって、
第二次大戦中から「砂漠の狐」の異名もあり
一般的には名将として知られる。
幼少・少年期
子供の頃のロンメルは、
病気がちで大人しい少年だったという。
姉ヘレーネによると、ロンメルは、
色白で髪の色も薄かったので、
家族から「白熊ちゃん」とあだ名されていた。
1900年には、
父親が校長を務める実科ギムナジウムに入学した。
当初、ギムナジウムでは劣等生であり、
怠け者で注意散漫だったという。
読書にも運動にも興味がない子供だったが、
10代になると突然活発になった。
数学の成績が良くなり、
スポーツにも関心を持つようになった。
軍人に
1910年7月19日に
ヴュルテンベルク王国陸軍第6歩兵連隊
「ケーニヒ(国王)・ヴィルヘルム1世」
(ドイツ帝国陸軍第124歩兵連隊)に
下級士官候補生として入隊した。
1912年1月27日に少尉に任官し、
第124歩兵連隊に戻った。
ロンメルは、新兵の訓練を担当した。
この頃から、
ロンメルは自分のカリスマ性を存分に発揮している。
第一次世界大戦
1914年7月末から8月初めにかけて、
第一次世界大戦となる各国の戦闘が続々と勃発した。
ドイツ軍とフランス軍は、1914年8月3日に開戦した。
ロンメル少尉の所属する第124歩兵連隊は、
第5軍(司令官ヴィルヘルム皇太子)隷下の
第13軍団隷下の第27歩兵師団隷下として、
対フランス戦に動員された。
フランスで塹壕戦
1915年1月13日に第124歩兵連隊に復帰した。
ロンメルは、中隊を率いて匍匐前進しながら
フランス軍の築いた有刺鉄線の鉄条網を
隙間を通り抜けて進み、
フランス軍主陣地に突入し、
掩蔽部4か所を占領した。
ルーマニア戦線
1916年10月末、
山岳兵大隊はルーマニア戦線に転戦した。
イタリア戦線
ヴュルテンベルク山岳兵大隊は
1917年9月26日に北部イタリア戦線に動員された。
1918年11月初めにキールの水兵の反乱を機に
ドイツ全土に反乱が広がり(ドイツ革命)、
カイザー・ヴィルヘルム2世は11月10日にオランダへ亡命、
翌11日にはドイツ社会民主党の主導する
新ドイツ共和国政府がパリのコンピエーニュの森で
連合国と休戦協定の調印を行った。
第一次世界大戦はここに終結した。
第二次世界大戦
1939年9月1日にドイツ軍のポーランド侵攻、
続く英仏のドイツへの宣戦布告をもって
第二次世界大戦が開戦した。
ロンメルは熱狂をもって戦争を迎えた。
ヒトラーもロンメルもポーランドを
落とせば英仏は講和を申し出てくると思っていた。
ポーランド戦後、
ベルリンで退屈な日々を
送ることになっていたロンメルは、
来るフランス戦では前線勤務を求め志願した。
1940年2月15日にロンメルは
新編成された第7装甲師団の
師団長に任命されることとなった。
西方電撃戦
1940年5月9日午後1時45分に
フランス侵攻作戦「黄色作戦」の暗号
「ドルトムント」がロンメルに伝達された。
西方電撃戦では速さが一番重要だった。
ロンメルの第7装甲師団は特に素早く進軍し、
しばしば師団の主力が師団の先頭に置き去りにされた。
ロンメルの搭乗する戦車は
常に師団の先頭に立って前進した。
アラスの戦い
第7装甲師団は5月20日にアラスへの攻撃を開始した。
ダンケルク包囲
5月22日と5月23日にアラス西郊を迂回して
ベテューヌまで前進し、
同地のイギリス軍をその先にある
運河線の向こうまで後退させた。
シェルブールへ進撃
ヒトラーからシェルブール占領の命令を受けた
ロンメルの師団は6月16日にルーアンに
ドイツ軍が架橋した橋を通過して
セーヌ川を超えて進軍を開始した。
6月19日朝激しい砲撃に耐えかねたシェルブールの
フランス軍はついに午後5時に降伏した。
シェルブールの3万のフランス将兵を捕虜にした。
シェルブール戦終了を以って西方電撃戦における
ロンメルの師団の戦闘は終わった。
北アフリカ戦線
1941年2月にロンメルは
ドイツアフリカ軍団の軍団長となり、
以降1943年3月まで北アフリカで戦い続けることになる。
北アフリカにおける砂漠戦は厳しい環境の中で行われた。
ガザラの戦いに勝利、
キレナイカもトブルクも奪還
ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。
英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、
キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、
更にエジプト領へ侵攻されることとなる。
特に英軍の「抵抗のシンボル」だった
トブルクが陥落したことは英独双方に
精神的衝撃が大きかった。
トブルク陥落によりチャーチルは
庶民院から問責決議案を突きつけられている。
ヒトラーは、ロンメルの戦いに感動し、
6月22日付けで彼を元帥に昇進させた。
それにより、ロンメルは、
史上最年少のドイツ陸軍元帥となった。
ロンメルは、
戦争が始まる前は少将に過ぎなかったが、
戦争が始まって3年足らずで
中将、大将、上級大将、元帥と
4階級も昇進するという前例のない出世をしていた。
エジプト侵攻
ロンメル率いる独伊軍は
ガザラの戦いで消耗していたが、
英軍に回復の時間を与えぬために
勢いに乗って1942年6月24日から
エジプト領へ攻め込んだ。
ロンメルは英軍がエル・アラメインで
体制を整える前に一気に片付けることを企図し、
メルサ・マトルーからエル・アラメインに
撤収していく英軍の急追を命じた。
その後7月を通じて英軍と独伊軍は
エル・アラメインの線で一進一退の攻防を続けた。
9月1日にはロンメルも勝機を失ったと
判断して全軍に攻勢中止と発起点への退却を命じた。
この戦いにおいても
失われた戦車の数は英軍の方が多かったが、
「砂漠の狐」の攻勢を撃退したという事実は
低下する一方だった英軍の士気を
回復させるに十分な効果があった。
北アフリカから撤退
1943年3月9日にヒトラーは
ロンメルをアフリカ軍集団司令官から
解任してベルリンに呼び戻した。
ヒトラーがロンメルを解任した
理由についてはよく分かっていない。
ロンメルが病気で衰弱していたという説、
敗北に対する処分だったという説、
どう考えても北アフリカの戦況は好転しないので
ロンメルの名声を守るために
彼をこの戦域から外したという説、
この数週間前にソ連軍の捕虜となった
パウルス元帥に続いてまた一人ドイツ軍元帥が
捕虜になるのを恐れたという説などがある。
ノルマンディーでの敗北
ロンメルの精力的な準備にも拘らず
1944年6月時点ではまだ防備は不十分であった。
しかし、ドイツ軍の気象班は
6月上旬は天候が悪化するため、
6月10日までは連合軍の侵攻はないと判断していた。
そのドイツ軍の油断をついて、
D-Dayこと6月6日、
連合軍のノルマンディー上陸作戦が敢行された。
ノルマンディの戦況悪化に
居ても立っても居られなくなったヒトラーは、
“敗北主義者”の将軍らを叱咤するため、
6月16日にフランスの
ヴォルフスシュルフトIIにやってきて、
「退却も作戦もあるか。
立ち止まって保持するか、
死ぬかだよ」
と死守を命じた。
現実離れしているヒトラーに
腹を立てたロンメルは
「既にドイツは孤立し、
西部戦線は崩壊の瀬戸際にあり、
国防軍は東部戦線だけでなく
イタリアでも敗北しつつある」
と現状を分析し
「できるだけ早い時期に、
この戦争を終わらせるべきだ」
とヒトラーに促した。
ヒトラーは同席していた他の将軍や副官らが
恐れるほどにロンメルに対して激怒し
「あいつら(連合国)が交渉に応じるはずがない」
と拒絶した。
ヒトラー暗殺未遂事件とロンメルの最期
1944年7月20日、
シュタウフェンベルク参謀大佐主導の
ヒトラー暗殺未遂事件が発生。
暗殺は偶然が重なって失敗に終わるも、
ロンメルと懇意にしていた
シュパイデルが計画の関与を疑われたこと、
また、逮捕直前にシュテュルプナーゲルが
自決を図って失敗した際にうわ言のように
ロンメルの名を口にしたこと、
シュテュルプナーゲルの
副官ツェーザー・フォン・ホーファッカー空軍中佐が
ゲシュタポによる拷問でロンメルが
「私を当てにしてよろしい」
と語っていたと供述したことから
ロンメルも計画への関与を疑われた。
ロンメルが暗殺計画に何らかの
関与をしているとの疑いは濃かったが、
確実な証拠は得られなかった。
これらの情報はヒトラーに伝えられたが、
ヒトラーはロンメルの関与を確信し、
もっともお気に入りであった将軍を葬る決心を固めた。
ただし、最後の慈悲として、
裁判にかけられて惨めな思いを
したあげくに処刑されるか、
英雄の名を保ったままで自決するか
ロンメル自身に選ばせてやることとした。
ロンメルに
「3秒間で効力を発揮する毒薬で
自決すれば反逆を不問にして国葬で弔い、
家族には年金を支給する」
もしくは「人民法廷で裁く」
の選択をヒトラーが迫っていることを伝えた。
車のなかでブルクドルフから渡された
シアン化物の錠剤を飲んで自決した。
圧倒的な戦功で知られたロンメルの死は
「戦傷によるもの」として発表され、
祖国の英雄としてウルムで盛大な国葬が営まれた。
戦争時の司令官として
実践したロンメルの言葉は納得である。
政治家にも緊急事態の時には、
この言葉を思い出して実践して欲しい!!
コロナ感染拡大、円高、物価高と
日本はまさに緊急事態だと思うのだが・・・?
特に岸田首相には各前線で指揮を執ってもらいたい。
♩後の祭りよ・・・♩てなことに、
ならないことを祈るのみである。
最近の岸田首相の発する言葉のすべてが
どこか空々しく感じるのは私だけか・・?
良くも悪くも安倍晋三元首相の言葉には信念があった。
指導者たる者は自分の信念を貫くこと、
中国人の妻はそこを高く評価している。
2022年8月2日
カレーうどんの日
1910年(明治43年)に
東京目黒の蕎麦屋「朝松庵」が提供し、
全国にカレーうどんが浸透してから100年目になる2010年、
カレーうどん100年革新プロジェクトが制定。
6月2日がかつて「横浜・カレー記念日」、
7月2日が「うどんの日」であることから。
昼食はカレーうどんにしよう!
今朝の新聞に任期満了に伴う香川県知事選
(11日公示、28日投開票)
に共産党の新人中谷浩一氏が立候補するとあった。
池田豊人氏(自民、立民、公明、国民推薦)が
既に出馬表明しているので、選挙戦が確実となった。
今までは選挙立会人(2人)の一人だったのだが、
今回は選挙管理人に任命された。
適切な選挙がなされるように管理する職である。
責任が重くなるのでその分手当も上がるのかなぁ・・・・・?
本来なら火曜日は
午前中はヨーガ教室、
午後はゴルフ練習なのだが、
蜂に刺されて膨れ上がった左手では無理である。
かと言って散歩も危険な暑さになりそうなので、
今日一日家でゆっくりするしか無いようだ!