赤肉団上に一無位の真人あり、

常に汝ら諸人の面門より出入す。

 

  意味: もう一人の私がいる。

 

         西田幾多郎という哲学者の

         代表的論著『善の研究』の序文に、

          「個人あって経験あるにあらず、

          経験あって個人あるのである」

         という難しい一文がある。

 

         西田に言わせれば、

         「個人」が花を見たり月を眺めたりするのではない。

         むしろ逆で、花や月を見て美しいなあと

         経験することによって自己が形成されるのだと言う。

 

  由来: 『臨済録』上堂

        臨済禅師が弟子たちに向かって、

         「われわれのこの身体の中に、

          一人の形の限定できない真実の〝人(にん)がいる。

         〝彼〟は、朝から晩まで五官を通して

          出たり入ったりしている。

          そいつをまだ見たことがない者は、見よ、見よ」

        と言われた。

        これこそ禅者が求めるべき、「真実の自己」なのだ。

 

        木や石と違って人間には「意識」があり、

        その意識が他人ではない「自分」を自覚させている。

        こうしてわれわれは自我意識を「自分」だと勘違いしている。

 

        「自己」というものの内容は、

        肉の固まりと感覚器官を通して入ってくる

        経験によって成り立っているのである。

 

        道元禅師はこのことを

        「本来の面目」(真実の自己)と題した歌で、

          「春は花 夏ほととぎす 

           秋は月 冬雪さえて冷しかりけり」

        と歌っているのである。

 

「真実の自己」・・・本当の自分

自分のことはよく分からないものである。

 

きっといろんな自分が存在しているために、

これだといいきれないからだろう・・・?

 

しかし、それでいいのだ!

それだけ多くの経験を積んだという事だから。

 

2022年1月22日

昨夜のお家カラオケは生酒で・・・!

四国88カ所巡拝バスツワーの車内では、

コロナ感染防止で歌えないので、

3年ぶりに「空海の道」を歌った。

 

  ♪一番札所 霊山寺

   ここ振り出しに 四国寺を

   今日も行く行く お遍路さんが

   千年有余の今もなお

   絶える事なき 空海の道

   一人旅でも同行二人

   阿波の徳島 発心の道場

 

   思えば遠き その昔

   道なき道を かきわけて

   今日は野に伏し 五大に思い

   明日は深山 遍照の

   願を込めた 空海の道

   今じゃ異国の 巡礼までも

   土佐の高知は 修行の道場

 

   難行苦行 その跡を

   慕う遍路の 心意気

   般若心経 唱えて挑む

   極楽往生 金剛の

   杖に託した 空海の道

   難所石鎚 横峰の寺

   伊予の愛媛は 菩提の道場

 

   眺めも清し 雲辺寺

   これより巡る 讃岐寺は

   大師生まれの 善通寺から

   最終札所の 大窪寺

   ここで結願 空海の道

   現代も大師は 高のの山に

   讃岐香川は 涅槃の道場 ♪

 

 

先日、長野の弟が田んぼを耕してくれた。

 

イノシシ君が掘って荒らした田んぼがスッキリ、謝謝!!

 

午前中は散歩に。

 

午後は写経!