恥の多い生涯を送って来ました。
太宰治
左翼活動での挫折後、
自殺未遂や薬物中毒を繰り返しながらも、
第二次世界大戦前から戦後にかけて作品を次々に発表。
主な作品に『走れメロス』『津軽』『お伽草紙』『人間失格』がある。
没落した華族の女性を主人公にした『斜陽』はベストセラーとなる。
青森県北津軽郡金木村(のちの金木町、現在の五所川原市)に、
県下有数の大地主である
父津島源右衛門と母たね(夕子)の六男として生まれた。
津島家は「金木の殿様」とも呼ばれていた。
学生時代
1927年(昭和2年)
旧制弘前高等学校文科甲類に優秀な成績で入学。
1928年(昭和3年)、
同人誌『細胞文芸』を発行すると辻島衆二名義で
当時流行のプロレタリア文学の影響を受けた
『無限奈落』を発表するが、連載は1回で終了。
津島家の反対を受けたと推測されている。
この頃、芸者の小山初代(1912-1944)と知り合う。
1929年(昭和4年)、
弘高で起きた同盟休校事件をモデルに『学生群』を執筆、
改造社の懸賞小説に応募するが落選。
12月10日未明にカルモチン自殺を図り、
母たねの付き添いで大鰐温泉で1月7日まで静養した。
1930年(昭和5年)、
弘前高等学校文科甲類を76名中46番の成績で卒業。
フランス語を知らぬままフランス文学に憧れて
東京帝国大学文学部仏文学科に入学、上京。
講義についていけず、
美学科、美術史科への転科を検討している。
小説家になるために井伏鱒二に弟子入りする。
10月、小山初代が太宰の手引きで置屋を出て上京。
津島家は芸者との結婚に強く反対。
11月に長兄の文治が上京して説得するが、
太宰は初代と結婚すると主張。
文治は津島家との分家除籍を条件に結婚を認める。
大学を卒業するまで毎月120円の仕送りも約束するが、
財産分与を期待していた太宰は落胆する。
除籍になった10日後の11月28日、
銀座のバー「ホリウッド」の女給で18歳の田部シメ子と
鎌倉・腰越の海にてカルモチンで自殺を図る。
だがシメ子だけ死亡し、太宰は生き残る。
自殺幇助罪に問われるが、
文治らの働きかけで起訴猶予処分となる。
南津軽郡の碇ヶ関温泉郷の柴田旅館で、
初代と仮祝言をあげるが、入籍はしなかった。
創作、乱れた私生活
1933年(昭和8年)、
『サンデー東奥』(2月19日発行)に『列車』を太宰治の筆名で発表。
1935年(昭和10年)、
『逆行』を『文藝』2月号に発表。
大学5年目になっていた太宰は、
卒業できず仕送りを打ち切られることを考え、
都新聞社(現・東京新聞)の入社試験を受けるが不合格。
3月18日、鎌倉で首吊り自殺を図る。
4月、腹膜炎の手術を受ける。
入院中に鎮痛剤パビナールの注射を受け、
以後依存症となる。
第1回芥川賞が開催され、
『逆行』が候補となるが落選
(このとき受賞したのは石川達三『蒼氓』)。
芥川賞選考委員であった佐藤は選評で
「『逆行』は太宰君の今までの諸作のうちではむしろ失敗作」
と厳しく、
同じく選考委員である川端康成からは
「作者、目下の生活に厭な雲あり」
と私生活を評される。
太宰は川端に
「小鳥を飼い、舞踏を見るのがそんなに立派な生活なのか」
と文芸雑誌『文藝通信』10月号で反撃した。
1936年(昭和11年)、第2回芥川賞選考を前に、
太宰は師事する佐藤宛てに
「佐藤さん一人がたのみでございます」
と受賞を乞う手紙を出すが、
井伏鱒二と山岸外史から太宰のパビナール依存を聞いていた佐藤は、
太宰を呼び出し入院治療を厳命。
済生会芝病院に10日間入院した。
第2回芥川賞の結果は「受賞該当者なし」で太宰は候補作になかった。
第3回に向け、
太宰は『文學界』に『虚構の春』を発表。
6月21日、処女短編集『晩年』を砂子屋書房より刊行。
第1回の選考をめぐり「悪党」呼ばわりした
川端康成に対し献本と選考懇願の手紙を送っているが、
第3回では過去に候補作となった小説家は
選考対象から外すという規定が設けられ、
候補にすらならなかった。
パビナール依存がひどくなり、
多い時には1日50本を注射。
初代の着物を質に入れ、知人に借金をして歩いた。
1937年(昭和12年)、
津島家の親類の画学生小館善四郎が初代との不貞行為を告白。
3月下旬、水上温泉で初代とカルモチン自殺未遂。
6月には初代と離別した。
結婚、作家活動
1938年(昭和13年)、
井伏鱒二の紹介で山梨県甲府市出身の
地質学者・石原初太郎の四女の石原美知子と見合い。
このとき、太宰は媒酌人を渋る井伏に対して
「結婚誓約書」という文書を提出した。
その中でこれまでの乱れた生活を反省、
家庭を守る決意をして
「再び破婚を繰り返した時には私を完全の狂人として棄てて下さい」
と書いている。
翌年1月8日、井伏の自宅で結婚式を挙げる。
精神的にも安定し、
『女生徒』『富嶽百景』『駆け込み訴へ』『走れメロス』
などの優れた短編を発表した。
『女生徒』は川端康成が
「『女生徒』のような作品に出会えることは、時評家の偶然の幸運」
と激賞、原稿の依頼が急増した。
1941年(昭和16年)、文士徴用令に呼ばれるが、
身体検査で肺浸潤とされて徴用免除される。
太田静子に会い、日記を書くことを勧める。
太平洋戦争中も『津軽』『お伽草紙』や
長編小説『新ハムレット』『右大臣実朝』など
旺盛な創作活動を継続。
1945年10月から翌1946年1月まで『河北新報』に『パンドラの匣』を連載。
チェーホフの『桜の園』のような没落貴族の小説を構想、
1947年(昭和22年)2月、
神奈川県下曾我で太田静子と再会、日記を借りる。
3月27日、美容師の山崎富栄と知り合う。
没落華族を描いた長編小説『斜陽』を『新潮』に連載。
12月15日、単行本として出版されるとベストセラーになり、
「斜陽族」が流行語となるなど流行作家となる。
『斜陽』の完成と前後して、登場人物のモデルとなった
歌人太田静子との間に娘の太田治子が生まれ、太宰は認知した。
10月頃、新潮社の野原一夫は
太宰が富栄の部屋で大量に喀血しているのを目撃しているが、
富栄は慣れた様子で手当てをしていたという。
1948年(昭和23年)、『人間失格』『桜桃』などを書きあげる。
富栄は手際が良く、「スタコラさっちゃん」と呼ばれ、
太宰の愛人兼秘書のような存在になっていた。
死
1948年(昭和23年)6月13日、
玉川上水で愛人の山崎富栄と入水した。満38歳没。
2人の遺体は6日後の6月19日、
奇しくも太宰の39回目の誕生日に発見され、
この日は彼が死の直前に書いた短編「桜桃」にちなみ、
太宰と同郷で生前交流のあった今官一により
「桜桃忌」と名付けられた。
50回忌を目前に控えた1998年(平成10年)5月23日に
遺族らが公開した太宰の9枚からなる遺書では、
美知子宛に「誰よりも愛してゐました」とし、
続けて「小説を書くのがいやになつたから死ぬのです」
と自殺の動機を説明。
この言葉は完成された最後の小説となった
『人間失格』の冒頭の一文である。
他人の前では面白おかしくおどけてみせるばかりで、
本当の自分を誰にもさらけ出すことのできない
男の人生(幼少期から青年期まで)をその男の視点で描く。
第一の手記
恥の多い生涯を送って来ました。
この書き出しから始まる。
「自分」は人とはまったく違う感覚を持っており、
それに対して混乱し発狂しそうになる。
それゆえにまともに人と会話が出来ない「自分」は、
人間に対する最後の求愛として道化を演じる。
だが、その言い争いも自己弁解もできない「自分」の本性は、
女中や下男に犯されるという大人たちの残酷な犯罪を語らず、
力なく笑っている人間であった。
結果的に「自分」は欺きあいながら、
「清く明るく朗らかに」あるいは生きうる自信を持つ人間たちに
対する難解さの果てに誰にも訴えない孤独を選んでいた。
主人公・大庭葉蔵の生涯は、
治自身のそれと重なる部分が多い。
いつわらざる感想だったのだろうが・・・!!
正直に言えば主人公(太宰治)を好きになれない。
2021年1月18日
明日にも新たに1都10県に
まん延防止措置が適用される見込みである。
幸いにも四国4県は対象外だ。
明日の四国88カ所巡拝バスツワー1回目の
阿波10カ寺は予定通り実施されるだろう!
午前中はヨーガ教室。
太った上に、1カ月ぶりなので体がついていけるか心配だ。
まぁ、無理せずに動くとこまでで・・・・!
午後は写経。