木鶏子夜に鳴く
(もっけいしやになく)
意味: 直訳すれば
「木彫りの鶏が子の刻(午前0時頃)に鳴く」
になるのだが・・・・禅語では、
「木彫りの鶏のように落ち着きはらった心でありつつ、
人知れず努力を重ねることのできる人、
縁の下の力持ちになれる人をこそ、
優れた人と呼ぶのだ」
という意味。
木鶏とは、
泰然自若とした境地、無心の境地こそ
本物の強さだという意味を持つ言葉。
木鶏のエピソード
昔、中国に闘鶏を育てる名人がいた。
そんな名人の噂を聞きつけた闘鶏好きのある国王が、
名人を呼び寄せその腕を見込んでこう頼んだ。
「どうか私のために強い闘鶏を育ててほしい」
名人は、おやすい御用だとばかりに快く請け負った。
数日経ったころ我慢できずに名人に問いかけた。
「もう闘わせてもよいのではないか」
しかし名人は首を横にふる。
「いえ、まだまだです。ゆっくりお待ちください」
また数日経つと名人に尋ねた。
「そろそろ強くなった頃合いだろう。
闘わせてもよいのではないか」
しかし名人はまた首を横にふる。
「いえ、この鶏はまだ虚勢を張っています。
闘わせるには未熟です。
もうしばらくお待ちください」
しばらくするとまた同じように鶏のデビュー戦を促すのだった。
それでも名人はなかなか首を縦にふらない。
「他の鶏を見ると興奮してしまう」
「まだ気負いが垣間見られる」
そんなやりとりが繰り替えされ数十日が経過したある日、
ついに名人は満足のいく
鶏に仕上がったといって1匹の闘鶏を国王に献上した。
そして、名人は国王にこう告げた。
「どれだけ強くても、
その強さを見せびらかしたり
自惚れているあいだは本物ではありません。
虚勢も威嚇も興奮も気負いも、
すべて未熟な心から生まれるものです。
けれどもこの鶏なら大丈夫です。
他の鶏の鳴き声を聞いてもまったく動じず、
木彫りの鶏のごとく平然としていられます」
名人の考える「強さ」とは、
木彫りの鶏のごとく平然であることだったのだ。
真の強さとは何か?
世間には縁の下の力持ちになって、誰かを支える人々が大勢いる。
「成功者」とか「勝ち組」になれる人が
優れた人だとする風潮は依然として強いが、
禅の考える強者とはそのような人たちを指すのではない。
精神を修め、泰然と生きることのできる人、
それこそが人間として本当に強い人なのだと考えた。
陰に立ち、
自然と縁の下の力持ちとして生きることのできる人こそ、
真に勝れた人なのだと。
世の中に張子の虎は大勢いるが木鶏と呼べる人は・・・?
特に政治家には縁の下の力持ちとして生きてほしい!
選挙期間中はそう思わせる人も多いのだが、
当選後は残念ながら張子の虎になってしまう。
秋の総選挙には、木鶏を見つけたいものだ!!
2021年6月29日
昨日久しぶりに大連出張中の妻から電話があった。
正確に言えば1月初めに大連に出発してから、
身分は駐在になっていたようだ。
去年もコロナの関係で10カ月帰国できなかったことで、
出張扱いが労務上の問題となっていてそうなったようだ。
駐在になったので、来年は日本の住民税は不要になる。(当然の事)
出張の日当と駐在の手当とどちらが多いのかなぁ・・・?
給料として所得税はアップすることになるだろうが、
私にとっては経済的にも生活面でも無関係である。
午前中は公民館でヨーガ教室。
午後はカラオケ教室。