古事記 中つ巻 (初代から十五代天皇まで)

 

 応神天皇 その二

   

    応神天皇(おうじんてんのう)は

      第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日 - 同41年2月15日)。

      実在性は定かでない。

 

 渡来人

   即位14年、弓月君(秦氏の先祖)が百済から

   来朝して窮状を上奏し援軍を求めた。

      

      弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)は、

      『日本書記』に記述された、秦氏の先祖とされる渡来人である。

      『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。

      伝説上の人物であり、実在は不明である。

 

   弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが

   新羅の妨害によって叶わず、その民は加羅に留まっていた。

   そこで葛城襲津彦を派遣したが三年経っても

   弓月君の民を連れて帰還することはなかった。

 

   そこで即位16年8月、新羅の妨害を防いで

   弓月君の民の渡来させるため平群木菟宿禰(へぐりのつくのすくね)と

   的戸田宿禰(いくはのとだのすくね)が率いる

   精鋭が派遣され新羅国境に軍を展開した。

   新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

 

   

   即位15年8月、

   百済の阿花王(阿莘王)が良馬二頭を阿直岐(あちき)に付けて献上した。

   この阿直岐は阿直岐史の祖であり、経典が読めたので

   菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)の師となった。

      第15代応神天皇皇子で、第16代仁徳天皇の異母弟。

 

   天皇はさらに優れた人物を望み、阿直岐から推薦された

   王仁(わに)を即位16年2月に呼び寄せた。

   王仁は書首(ふみのおびと)の祖である。

   また天皇が「もし賢人しき人あらば貢上れ」と仰せになったので

   「命を受けて貢上れる人、名は和爾吉師(わにきし)。

   すなわち論語十巻、千字文一巻、併せて十一巻を

   この人に付けてすなわち貢進りき。

   この和爾吉師は文首等の祖。

   また手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)

   また呉服(くれはとり)の西素(さいそ)二人を貢上りき」とある。

   この論語と千字文の貢進がそれぞれ儒教と漢字の伝来とされている。

 

   即位20年9月、「倭の漢直の祖阿知使主(あちのおみ)、

   その子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて渡来。

 

   即位37年、阿知使主と都加使主は

   縫製女工(きぬぬいおみな)を求めるため呉へ派遣され、

   倭王讃の朝貢にも比定される。

 

   晩年の即位40年1月8日、

   天皇は大山守命と大鷦鷯尊を呼び寄せ

   「お前たち、子どもは愛おしいか?」と尋ねた。

   二人が肯定すると次に

   「年長と年少ではどちらがより愛おしいか?」と尋ねた。

 

   大山守命が年長だと答えると天皇は不機嫌になった。

   そこで大鷦鷯尊が空気を読んで

   「年長は多く年月を経て既に成熟しており心配ありません。

    しかし年少は未だ未熟であり大変心配で愛おしいものです」と答えた。

   天皇は「その通りだ」と大変喜んだ。

   天皇はかねてから年少の菟道稚郎子を立太子しようと思っていたので、

   年長の二皇子の気持ちも知りたいと思いこの問いをしたのだった。

 

   24日、天皇は菟道稚郎子を皇太子とし、

   大鷦鷯尊は太子の補佐役として国事を仕切らせ、

   大山守命には山川林野を任せた。

   大山守命はこれを不服に思い翌年に天皇が崩御すると反乱を起こすこととなる。

   また菟道稚郎子は即位を拒否し、大鷦鷯尊との譲り合いの末に自決した。

   結局、帝位を継いだのは大鷦鷯尊だった(仁徳天皇)。

 

これで中つ巻は終了する。

下つ巻は以降に!!

 

2019年9月12日

11日の県内は厳しい残暑が続き、

高松の気温は35.8℃を観測。

前日に続いて最高気温が35℃以上の「猛暑日」となった。

これは19年ぶりのことらしい。

予報によると向こう1週間の最高気温は30℃以上の

「真夏日」が続くようだ!

やはり「暑さ寒さも彼岸まで」ということだろう!!

 

午前中は卓球の練習に。

 

午後は気温次第でカイズカの剪定も・・・・?