古事記 中つ巻 (初代から十五代天皇まで)

 

  仲哀天皇 その三

 

    仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)は

      第14代天皇(在位:仲哀天皇元年1月11日 - 同9年2月6日)。

      日本武尊の子で神功皇后の夫。

      実在性は定かでない。

 

    神功皇后(じんぐうこうごう)は仲哀天皇の皇后。

    古代日本の摂政(在位:神功皇后元年10月2日 - 神功皇后69年4月17日)。

    一部史書では女帝とされる。

 

 香坂王 かごさかのみこ と忍熊王おしくまのみこの反逆

 

   新羅を討った翌年2月(仲哀9年)、

   皇后は群臣を引き連れて穴門豊浦宮に移り天皇の殯を行った。

       (もがり)とは、

         日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、

         死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、

         別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、

         死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの

         物理的変化を確認することにより、

         死者の最終的な「死」を確認すること。

 

   そして畿内への帰途についた。

 

   しかし都には天皇の長男、次男である香坂王、忍熊王がいた。

   彼らは誉田別尊(ほむたわけのみこと)の誕生を知り、

   皇后たちがこの赤子を君主(天皇、あるいは太子)に推し立ててくることを察した。

 

   そこで播磨の赤石に父の山稜(天皇陵)を作ると称して挙兵、

   五十狹茅宿禰(いさちのすくね)に命じて東国から兵を集めさせた。

   そして菟餓野というところで

   「戦いに勝てるならば良い猪が捕れる」と誓約(うけい)の狩りを行った。

   ところが突然現れた獰猛な赤い猪に香坂王は食い殺されてしまった。

   凶兆と理解した忍熊王は住吉まで撤退した。

 

   忍熊王たちが待ち受けていることを知った皇后は、

   一旦紀伊に寄って誉田別尊を預けて北上。

   しかし紀淡海峡を突破できなかったため明石海峡を回って務古水門に到着。

   道中で天照大神、稚日女尊、事代主神、住吉三神を祀った後に進撃。

   忍熊王はまた撤退して山背の莵道(宇治の異表記)に陣を敷き、

   ここが決戦の場となった。

   忍熊王方の熊之凝(くまのこり)という者が歌を詠み軍を鼓舞した。

      ●彼方の あらら松原 松原に 渡り行きて

        槻弓に まり矢をたぐへ 貴人(まれびと)は 貴人どちや

        いざ鬪はな 我は たまきはる 内の朝臣が 腹内は

        砂あれや いざ鬪はな 我は

 

   皇后軍を率いる武内宿禰(たけしうちのすくね)や

   武振熊命(たけふるくま)は一計を案じて偽りの和睦を申し出た。

   兵に命じて弓の弦を切らせ剣も捨てさせた。

   忍熊王がそれに応じて自軍にも同じようにさせると武内宿禰は再び号令し、

   兵に替えの弦と剣を取り出させた。

   予備の兵器など用意していなかった忍熊王は敗走した。

   武内宿禰は逢坂山を超えて狹々浪の栗林(滋賀県大津市膳所)まで追撃した。

   逃げ場のなくなった忍熊王は五十狹茅宿禰を呼びよせ歌を詠んだ。

      ●いざ吾君 五十狹茅宿禰 たまきはる

        内の朝臣が 頭槌の 痛手負はずは 鳰鳥の 潜爲な

 

   忍熊王と五十狹茅宿禰は共に瀬田川へ入水し、

   遺体は後日になって引き上げられた。

 

   同年10月、皇后は群臣に皇太后と認められた。

   この年が摂政元年である。

 

   摂政2年11月8日、天皇を河内国長野陵に葬った。

 

   摂政3年1月3日、誉田別尊を太子とし、磐余若桜宮に遷都。

 

   摂政13年、2月に太子が武内宿禰に連れられて角鹿の笥飯大神に参拝。

   笥飯宮出発から始まった皇太后の遠征事業はここに終わり、酒宴が催された。

 

 新羅再征

   摂政5年3月7日、本国に一時帰国したいという

   微叱己知(新羅からの人質)の願いを聞き入れて

   葛城襲津彦を監視に付けるも逃がしてしまう。

 

   摂政46年3月、斯摩宿禰を朝鮮半島の卓淳国(大邱)に派遣。

   斯摩宿禰はさらに百済へ使者を送り、百済から日本への道を繋いだ。

 

   翌年4月、新羅と百済が朝貢してきた。

   百済の貢物が酷くみすぼらしいので使者の久氐を問い詰めたところ、

   新羅に貢物を奪われたと訴えた。

 

   摂政49年、新羅を再征伐することになった。

   将軍として派遣された荒田別(あらたわけ)・鹿我別(かがわけ)は

   百済の木羅斤資(もくらこんし)・沙々奴跪(ささなこ)と共に七つの国を平定した。

 

   以後、摂政52年まで久氐が日本と百済を往復し、

   百済から七支刀などの宝物をもたらした。

      七支刀は現在、奈良県天理市の石上神宮に保管されている。

 

   摂政62年、新羅が朝貢してこないので葛城襲津彦に征伐させる。

 

   摂政69年、4月に崩御。

 

第十五代 応神天皇は以降に!!

 

2019年9月6日

昨日、東京の息子から今月18日に帰省すると連絡があった。

目的は分からない・・・友達に会いに?散髪に?

母ちゃんは20日に大連出張から帰国するので、

CR-Zは彼に使わせ私は軽トラで辛抱しよう!

 

丁度18日は四国八十八カ所巡拝バスツワーに参加する。

高松空港には迎えに行けないので、タクシーを使うように言った。

(タクシー代を補填してやるかなぁ・・・)

夕食を食べるかと聞くと、

「あったら嬉しい」というので、

前日に好物(私の自信作でもある)を用意しておくつもりだ。

 (豚の角煮、イイダコの三杯酢、

  ゼンマイのキンピラ、ゴーヤとケンサキの酢の物)

 

午前中はゴルフの練習に!

 

午後のヨーガ教室の後に、

酒類が切れているので、焼酎・ウイスキーの買い出しに

コスモスに行くつもりだ。