中国奥地の達者(ちゅうごくおくちのだるま)
  
  中国の奥地を旅していた日本人が、とある村で「達磨(だるま)」という看板の掲げられた
  見世物小屋を見つける。
  中に入ってみると、両手両足を切断された日本人が舞台の上で見世物にされていた。
  「達磨」は、日本語で住所と名を名乗り助けを乞うが、店内の不気味な雰囲気に臆した旅行者は、
   そのまま逃げるように店を出て帰国する。その後、旅行者が「達磨」の名乗った名前について
   調べてみると、確かにその人物が中国へ一人旅をしたまま行方不明となっていた、というもの。
 
「現在広く知られた『玩具のだるま』の語源は、中国に古くから存在する『両手両足を切断して頭と胴体だけの
姿にする刑罰』に由来する」というものがある。
類似する刑罰は中国に存在し、前漢の時代に呂后がこの刑を行ったという伝説が残されているが、
玩具の「だるま」の語源は「達磨大師」であり、日本独自のものである(「達者」という言葉は中国語には
存在せず、達磨大師は中国語でも「達磨」)。
 
昭和30年代はお寺の境内で春市が盛大に行われていた。
中でも見世物小屋は大人気であった。
轆轤首の女、両手両足が無い人が口で文字を書くなどなど・・・・・・。
現在の町内の各お寺の春市は、昔のような華やかさ無く、少しの露天商と苗木市が行われる程度である。
 
中村久子さんについて紹介する。
  明治~昭和期の興行芸人、作家。
  両手・両足の切断というハンデにも拘らず自立した生活を送った女性として知られる。
  
  1897年(明治30年)11月25日生まれ、2歳の時に左足の甲に起こし凍傷が左手、右手、右足と移り、
  凍傷の影響による高熱と手足が真黒に焼ける痛みと苦しみに昼夜の別なく襲われた。
  3歳の時にこの凍傷が元で特発性脱疽となる。
  手術すべきか否か、幾度となく親族会議が行われたが、決断を下さないうちに、
  左手が手首からポロリと崩れ落ちたという。
  その後右手は手首、左足は膝とかかとの中間、右足はかかとから切断する。
  幾度も両手両足を切断し3歳の幼さで闘病生活が始まる。
 
  母と再婚した継父に身売りされ、「だるま娘」の名で見世物小屋での芸人として働くようになり、
  両手の無い体での裁縫や編み物を見せる芸を披露した。
 
  久子は見世物小屋で働き始めた時「恩恵にすがって生きれば甘えから抜け出せない。
  一人で生きていかなければ」と決意し、生涯を通じて国による障害者の制度による保障を
  受けることは無かった。
 
  後に結婚し、富子(次女、1924年生まれ)らを儲けて、祖母の死や夫の死という不幸に
  見舞われながらもくじける事なく、子供たちを養い気丈に働き続けた。
  1934年(昭和9年)にようやく興行界から去った。
 
  1937年、41歳の久子は東京日比谷公会堂でヘレン・ケラーと出会う。
  久子はその時口を使って作った日本人形をケラーに贈った。
  ケラーは久子を、私より不幸な人、私より偉大な人と賞賛した。
  
幾度もの苦難を乗り越えて自分で生き抜いてきた久子は以下の言葉を残している。
    「人の命とはつくづく不思議なもの。
     確かなことは自分で生きているのではない。
     生かされているのだと言うことです。
     どんなところにも必ず生かされていく道がある。
     すなわち人生に絶望なし。
     いかなる人生にも決して絶望はないのだ。
 
2013年5月19日
今日は母が入所しておる介護施設の家族会の総会がある。
去年の春に長期入所してから早一年がたった。
時間がたっぷりあるにもかかわらず、月1回の面会も滞る状態である。
なんと親不孝なことか・・・・・。
 
本年度から家族会の理事になったので、出来る限り行事に参加して母う機会を増やさねば。
11月には米寿の祝う会を家で行うことを計画している(母には内緒で)。
幸い施設に入って適切な介護・管理のおかげで健康状態はよくなっている。
元気で長生きしてほしい。