四面楚歌(しめんそか)
 意味: 周囲を敵に囲まれること
 
 由来: 垓下の戦い(がいかのたたかい)は、中国楚漢戦争期の紀元前202年に項羽の楚軍と
      劉邦の漢軍との間の垓下を中心に行われた戦い。
      当初は圧倒的に優勢であったが人心を得ず、次第に劣勢となって項羽は敗死することになる。
      
      漢軍は、韓信が30万の兵を率いて先鋒となり、孔熙と陳賀が側面を固め、総大将の劉邦の
      後ろに周勃と柴武が陣取った。
      対する楚軍は項羽が率いる兵は10万ばかりであった。
 
      韓信は自ら先頭に立ち項羽ら楚軍と戦ったが、劣勢になり後方に下がった。
      しかし、孔熙と陳賀が楚軍を攻撃すると、楚軍は劣勢になり、さらに韓信がこれに乗じて再び
      楚軍を攻撃すると、楚軍は大敗した。
 
      敗れた楚軍は防塁に篭り、漢軍はこれを幾重にも包囲した。
      夜、項羽は四方の漢の陣から故郷の楚の歌が聞こえてくるのを聞いて、
      「漢軍は既に楚を占領したのか、外の敵に楚の人間のなんと多いことか」と驚き嘆いた。
 
項羽は夜を突いて残る八百余りの兵を連れて出陣し、囲みを破って南へ向かった。
漢軍は夜明け頃にこれに気がつき、これを追った。八百の兵は次第に数を減らし、
東城に辿りついたときには項羽に従う者わずか二十八騎になっていた。
 
ここで数千の漢軍に追い付かれた項羽は、配下の者に
「ここでわしが滅びるのは天がわしを滅ぼそうとするからで、わしが弱いからではない。
 これから漢軍の中に入ってこれを破り、それを諸君に知らしめよう」と述べ、
二十八騎を七騎ずつに分けて、それぞれ漢軍の中に斬り込んでいった。
項羽は漢の都尉を討ち取り、兵士八、九十人を殺した。
配下が再び集結すると脱落したのはわずか二人だけであった。
 
項羽たちは東へ逃れ、烏江という長江の渡し場に至った。
ここを渡れば項羽たちがかつて決起した江東の地である。
烏江の亭長(宿場役人)は項羽に「江東は小さいですが、土地は方千里、人口も数十万おります。
この地で王となられよ。
この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることは出来ません」と告げた。
 
 しかし、項羽は笑ってこれを断り、
「昔、江東の若者八千を率いて江を渡ったが、今一人も帰る者がいない。
 江東の者たちが再びわしを王にすると言ってくれても何の面目があって彼らに会うことが出来るだろうか。」
と答えて亭長に騅を与え、部下も全て下馬させて、漢軍の中へ突撃した。
 
項羽一人で漢兵数百人を殺したが、項羽自身も傷を負った。
項羽は漢軍に旧知の呂馬童がいるのを見て、
「漢はわしの首に千金と一万邑の領地をかけていると聞く。旧知のお前に徳を施してやろう」と言い、
自ら首をはねて死んだ。
 
項羽の死によって約5年続いた楚漢戦争は終結し、
劉邦は天下を統一して前後約400年続く漢王朝の基を開くのである。
 
2013年1月14日
成人の日である。
国民の祝日に関する法律第2条によれば、
「おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする青年を祝いはげます」
ことを趣旨としている。
 
成人年齢のデータがある187の国・地域のうち、141の国・地域で
成人年齢が18歳(16歳・17歳も含む)である。
 
19歳・・・・韓国、アルジェリア
20歳・・・・日本、タイ、台湾、チュニジア、ニュージランド、パラグアイ、モロッコ
21歳・・・・アラブ首長国連邦、アルゼンチン、インドネシア、エジプトなどアフリカ、中東諸国が多い。
 
個人的には18歳が適当だと思うのだが・・・・!