1918年11月11日
 オーストリア皇帝カール1世が退位。700年余りに及ぶハプスブルグ家のオーストリア支配が終わる。http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d4/Golddukaten.jpg/800px-Golddukaten.jpg
1915年の4ダカット金貨。フランツ・ヨーゼフ1世の肖像(左)。
ハプスブルク家の紋章である双頭の鷲(右)の2つの頭は東と西を現すとされ、
王冠をかぶった鷲が東西を見渡す様を示している。
 
ハプスブルク家の旗
 
ハプスブルク家は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系の貴族の家系。
古代ラテン人の有力貴族であるユリウス一門(カエサル家)の末裔を自称し、
中世の血縁制度を利用した政略結婚により広大な領土を獲得、南ドイツを代表する大貴族に成長した。
 
1273年にハプスブルク伯のルドルフ(アルブレヒト4世の子)が
ドイツ王(皇帝に戴冠していない神聖ローマ帝国の君主)に選出されて世に出た。
 
1508年にマクシミリアン1世がローマ教皇から戴冠を受けずに皇帝を名乗り始める。
その後、婚姻関係からハプスブルク家はブルゴーニュ公領ネーテルランド(現在のベルギー、
オランダ、ルクセンブルクとフランス北部を含んでいた)、
ブルゴーニュ自由伯領(フランンシュ=コンテ(フランス東部、スイス国境に位置する地域圏))、
スペイン王国、ナポリ王国、シチリア王国などを継承し、
皇帝カール5世の下でヨーロッパの一大帝国を現出させた。
 
カトリックの擁護者としてプロテスタントと戦ったカールは、1521年に祖父マクシミリアン1世の所領を
弟フェルディナントと分割した。
こうしてハプスブルク家はスペイン系ハプスブルク家オーストリア系ハプスブルク家に分かれる。
 
スペイン系ハプスブルク家またはスペイン・ハプスブルク(エスパーニャ・アブスブルゴ、
スペインでは通常はカサ・デ・アウストリアと呼ばれる)家は、1580年から1640年までポルトガル王を兼ね、
海外植民地を含めて「日の沈まぬ帝国」を実現した。
また、オーストリア・ハプスブルク家との度重なる近親結婚のためか、病弱な王が続いた。
1700年、虚弱なカルロス2世の死によって断絶した後、スペイン継承戦争を経て王位を
スペイン・ブルボン家に譲った。
 
オーストリア系ハプスブルク家またはオーストリア・ハプスブルク家は、カール5世の弟フェルディナント1世に
始まる(ハプスブルク君主国)。
1740年、カール6世が男子を欠いたまま没したため、神聖ローマ皇帝位を喪失し、
オーストリアは長女マリア・テルジアが相続したものの、それを不服とするポロイセンなど列強との間に
オーストリア継承戦争が勃発した。
その後、大国化するプロイセン王国に対抗するためフランス王国と接近した(外交革命)。
フランス王太子ルイ(ルイ16世)とマリア・アントーニア(マリー・アントワネット)の結婚もその一環である。
 
1789年のフランス革命、ハプスブルク家に衝撃を与えた。
ルイ16世とマリー・アントワネットの処刑はハプスブルク家に脅威を与える。
さらにナポレオン・ボナパルトの台頭を許して、やがて全ヨーロッパがナポレオン戦争の災禍に
呑み込まれ行く動乱の時代に突入する。
 
ハプスブルク家のフランツ2世は、1804年にナポレオンがフランス皇帝として即位したのに先立って、
アーストリア皇帝フランツ1世を称しており、以後ハプスブルク家はオーストリアの帝室として存続した。
 
12年前、再婚旅行のドイツ・オーストリア・スイス・フランスのロマンチック街道10日間で、
行くとこ行くとこでハプスブルク家が登場し、その時はあまり気にならなかったのだが・・・!
 
2012年11月11日
あいにくの雨である。
歩けない・・・・ダイエット開始したのに・・・・・。
近くにバトミントンが出来る施設があるので行ってみようかなぁ!