1989年11月9日
 ベルリンの壁崩壊: 東西ドイツの国境検問所で市民の通行が自由化。
ブランデンブルク門近くのベルリンの壁に登る東西ベルリン市民(1989年11月10日)
 
実際に壁の人為的・物理的破壊が始まったのは11月10日であるが、
崩壊の日付は、その起源であるゲート開放が行われた11月9日とされる場合がある。
 
1989年11月9日、クレンツは党の中央委員会で「旅行許可に関する出国規制緩和」の政令案を読み上げた。それは以下のようなものであった。
  • 一、1988年11月30日の国外旅行に関する法令は、新旅行法が発効するまでの間適用されない。
  • 一、旅行および国外移住に関する次の暫定的経過措置が直ちに発効する
    • 1.外国旅行は(旅行目的、親戚関係など)諸条件を提示することなく、申請できる。
    • 2.警察の旅券・登録部門は、国外移住のための出国ビザを遅滞なく発給するよう指示される。
    • 3.国外移住に関して、両独国境ないし東西ベルリンのすべての検問所を使用できる。
  • 一、この暫定的経過措置については、添付の報道機関用資料が11月10日に発表される
この提案は「暫定的」の文言を削除したうえで、中央委員会の承認を受けた。
 
当時、社会主義統一党のスポークスマン的な役割を担っていたシャボウスキーは、18時からの
記者会見のために会議の途中で退席した。
シャボウスキーは記者会見が始まって1時間ほどたった頃、内容をよく把握しないまま国民の
大量出国問題に対し「我々はもう少々手を打った。ご承知のことと思う。なに、ご存じない?これは失礼。
では申し上げよう」と言うとクレンツから渡された報道発表用の書類を取り出し、
「東ドイツ国民はベルリンの壁を含めて、すべての国境通過点から出国が認められる」と発表した。
この案は中央委員会の承認は受けていたが、未だ閣僚評議会(内閣)の閣議では決定されておらず
正式な政令にはなっていなかったのだが、シャボウスキーは閣議決定されているものと錯覚していた。
 
ベルリンの壁崩壊は、既に民主化を果たしていたポーランドやハンガリーやブルガリアのみならず、
東ヨーロッパ全域に波及した。
1989年11月17日には、チェコスロバキアでビロード革命が発生し、ポーランドのワルシャワでは
チェーカー(KGBの前身)の設立者フェリックス・ジェルジンスキーの銅像が三つ裂きにされて撤去された。
そして、マルタ会談の直後の12月16日にはルーマニア革命(1989年)が発生した。
そして、ベルリンの壁崩壊から2年後の1991年8月20日にはバルト三国が独立し、
1991年12月25日には共産主義の元祖であったソビエト連邦自身まで崩壊した。
 
わずか2年で東ヨーロッパは激変したのである。
そしてそれはたったの20年前の事だ。
これからの20年はいったいどうなるのか・・・・・地球は美しいままで・・・・・と願う。
 
2012年11月9日
今夜から晩酌を少し控えよう(寝酒のロックは禁止)。
月曜日に検診があるからだ。
(三週間前検診で肝機能の低下がみられると節酒を求められていた)
本当は普段の生活で受けるべきなのだが・・・・。