1909年10月26日
伊藤博文がハルピンで安重根に暗殺される。
韓国統監府初代統監
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/17/Prince_Ito_and_Crown_Prince_of_Korea.jpg/386px-Prince_Ito_and_Crown_Prince_of_Korea.jpg
大韓帝国皇太子李垠と伊藤
明治38年(1905年)111月の第二次日韓協約(韓国側では乙巳保護条約と呼ぶ)によって
大韓帝国が大日本帝国の保護国となり、韓国総督府が設置されると初代統監に就任した。
日本は実質的な朝鮮の支配権を掌握した(広義の日本統治時代として植民地時代35年と
保護国時代5年をひとつながりでとらえることもある)。
伊藤は国際協調重視派で、大陸への膨張を企図して韓国の直轄植民地化を急ぐ
山縣有朋や桂太郎・寺内正毅ら陸軍軍閥と、しばしば対立した。
また、韓国併合について、保護国化による実質的な統治で充分であるとの考えから当初は
併合反対の立場を取っていたが、併合方針の閣議決定に反対した形跡は無い
(適当ノ時期ニ於テ韓国ノ併合ヲ断行スル事 1909年7月6日)。
また統監として日本の政策への韓国国民の恨みを買うことになり、朝鮮人安重根の暗殺テロに繋がった。
近年発見された伊藤の明治38年(1905年)11月の日付のメモには
「韓国の富強の実を認むるに至る迄」という記述があり、これについて伊藤博文研究の
第一人者とされる京都大学教授の伊藤之雄は、
「伊藤博文は、韓国を保護国とするのは韓国の国力がつくまでであり、日韓併合には否定的な考えを
持っていた事を裏付けるものだ」としている。
伊藤は、亡くなる1か月前に高杉晋作の顕彰碑に、
「動けば雷電の如く、発すれば風雨の如し、衆目駭然として敢えて正視するものなし。
これ、我が東行高杉君に非ずや」で始まる碑文を寄せている。
また、ハルビンで暗殺される前の歓迎会でのスピーチで
「戦争が国家の利益になることはない」と語っている。
明治42年(1909年)10月、ロシア帝国蔵相ウラジーミル・コロシェフと満州・朝鮮問題について
非公式に話し合うため訪れたハルピン駅で、大韓帝国の民族運動家安重根によって狙撃された。
このとき伊藤は「3発あたった。相手は誰だ」と叫んだという。
安はロシア官憲にその場で捕縛された。
伊藤は絶命までの約30分間に、側近らと幾つか会話を交わしたが、死の間際に、
自分を撃ったのが朝鮮人だったことを知らされ、「俺を撃ったりして、馬鹿な奴だ」と呟いたといわれる。
伊藤の死に際しては、
韓国人が公を暗殺したことは、特に悲しむべきことである。何故かといえば、公は韓国人の最も良き友であった。日露戦争後、日本が強硬の態度を以って韓国に臨むや、意外の反抗に逢った。陰謀や日本居留民の殺傷が相次いで 起こった。その時、武断派及び言論機関は、高圧手段に訴うべしと絶叫したが公ひとり穏和方針を固持して動かなかった。当時、韓国の政治は、徹頭徹尾 腐敗していた。公は時宜に適し、かつ正しい改革によって、韓国人をして日本統治下に在ることが却って幸福であることを悟らせようとし、六十歳を超えた 高齢で統監という多難の職を引き受けたのである。公を泰西の政治家と比較するに、公はビスマルクの如く武断的でなく、 平和的であったことはむしろグラッドストンに類するところである。
評価がある。
韓国では、2009年10月26日を
「安重根が国権剥奪の元凶・伊藤博文をハルビンで狙撃した義挙から100周年に当たる」と位置付け、
これに合わせ新しい記念館をソウル南山にある現在の記念館付近に建設することを計画している。
統治する側、される側の認識の違いをあらためて感じさせられる。
過去の侵略の対象になった国々(中国、韓国など)との信頼関係を築くには、
侵略された側への謝罪から始めなくてはならないと思う。
日本の謝罪は済んだとされているが、
それは侵略する側の言い訳にすぎなかったのでは・・・・・・・・?
2012年10月26日
昨日プロ野球ドラフト会議があった。
日本ハムが信念(その年のNO1を指名する)に基づいて
昨年の菅野(巨人と競合、今年巨人が念願の1位指名)に続いて、
ダイリーグ志望のスーパー高校生大谷を指名した。
菅野にとってのこの一年の苦労は言葉で言い表せないだろう。
彼が巨人で活躍した時に
「あの一年が今の僕を支えている」とヒーローインタビューで答えるのを願っている。
菅野は大学生だったが大谷は高校生だ、今後の成り行きを見守りたい。
良くも悪くもドラフト制度があるかぎり相思相愛で入団するのは難しい。