1877年9月24日
 城山の戦い。西郷隆盛が自刃し、西南戦争が終結。
 
明治六年政変で下野した西郷は1874年(明治7年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設した。
その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率することと、県内の若者を教育することであったが、
外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れており、
外征を行うための強固な軍隊を創造することを目指していた。
 
一方、私学校設立以来、政府は彼らの威を恐れ、早期の対策を行ってこなかったが、
私学校党による県政の掌握が進むにつれて、私学校に対する曲解も本格化してきた。
この曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だとする見解である。
 
1877年2月14日、私学校本校横の練兵場で、騎乗した西郷による一番〜五番大隊の閲兵式が行われた。
翌15日、60年ぶりといわれる大雪の中、薩軍の一番大隊が鹿児島から熊本方面へ先発した。
(西南の役開始)。
 
3月1日から3月31日まで、現在の熊本県熊本市植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。
田原坂の戦い。左が官軍、右が西郷軍。
 
城山の戦い。
 
9月1日、突囲した薩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。
9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、
西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、
襟を正し、跪座し遙かに東に向かって拝礼した。
遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。享年51(満49歳没)。
 
1877年2月25日に「行在所達第四号」で官位を褫奪(ちだつ)され、死後、賊軍の将として遇された。
その後、西郷の人柄を愛した明治天皇の意向や黒田清隆らの努力があっ1889月2月11日(明治22年)、
大日本帝国憲法発布に伴う大赦で赦され、正三位を追贈された。
明治天皇は西郷の死を聞いた際にも「西郷を殺せとは言わなかった」と洩らしたとされるほど
西郷のことを気に入っていたようである。
 
高村光雲作(犬は後藤貞行作)西郷隆盛像(上野恩賜公園)
 
2012年9月24日
秋祭りが終わると、いよいよイイダコ釣りだ。
ここ2,3年は不漁だった。今年こそはリベンジしたい。
 
丁度車の1年点検があり、待ち時間があるので散歩がてら、
ジャンプ(レインボー通り店)に竿の修理に行く予定だ。
 
今年5月のキス釣り(船)に使った竿先が、地球を釣り上げた時折れていたのだ。