1815年6月18日
 ワーテルローの戦い。ナポレオン軍が敗れ、百日天下が終了。
 1815年2月26日、エルバ島から脱出したナポレオンはフランスのジュアン湾に上陸し、パリへ進軍した。
 途中、ミシェル・ネイおよびニコラ=ジャン・デュ・スールトの両元帥を従え、
 7000人にふくれ上がった軍隊を率いて3月20日パリに入城し再び皇帝となった。
 
 ワーテルローの戦いでフランス軍は3万を失い、イギリス・オランダ連合軍も25000の死傷者を出した。
 ナポレオンは退位してイギリスへ亡命し百日天下は終わった。
 ナポレオンはイギリスのプリマスへの上陸を求めたが、ヨーロッパの混乱の元凶はナポレオンにあるとされ、
 ベルトラン、モントロン、グールゴの3人の将軍とともにセントヘレナ島に流されて1821年5月5日、
 彼の死を看取った。
 
 
 百日天下とは、ひとたびヨーロッパ諸国との戦争に敗れてフランス皇帝から退位したナポレオン1世が、
 1815年3月1日に帰国して帝位を取り戻し、ワーテルロー会戦に敗れて再びその地位を追われるまでの、
 およそ100日間の一時的支配のことを言う。
 またこの故事が転じて、百日天下は短期間の政権の喩えとしても使われる。
 
 日本では短期間の政権の喩えとしては「三日天下」が用いられる。
 
「三日天下」
 肥後細川家に伝わる『明智光秀公家譜覚書』には、
 本能寺の変後光秀が細川藤孝・忠興父子に味方になることを説得した書状が所収されており、
 その中で光秀は変の後参内し、従三位・中将に叙任された上で征夷大将軍の宣下を受けたと書かれている。  この史料の信憑性には疑問の余地があるものの、
 変後の政局が光秀を中心として展開したことは間違いない。
 
 では光秀の「天下」が実際にはどのくらいだったのかというと、
 本能寺の変が天正10年6月2日、
 羽柴秀吉軍が、、織田信長を討った明智光秀の軍勢と激突した、
 古来天王山の戦いと呼ばれてきた合戦の現代的表現で、
 山崎合戦とも呼ばれる山崎の戦いが同月13日、差し引き11日ないし12日間の「天下」だった。
 
2012年6月18日
 昨日は西瓜のカラス対策をした。
 西瓜は1つはハンドボールぐらいになってきた。
 家庭菜園の師匠として幾度か登場している近所の婆ちゃんが、
 「ようけなっとるな!カラスがくるけん対策せなアカンなぁ!
 昔ネットがなかった頃ゲンイチさんはタコ糸をはってたわぁ!」
 と言われて、
 早速私はタコ糸も無いので釣り糸を30cm間隔でうねを覆うようにはった。
 これでカラスから初めての西瓜を守れるのかなぁ?