1189年6月15日
源義経追捕の宣旨により藤原泰衛が衣川館を襲う。源義経は自害。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4d/Minamoto_no_Yoshitsune%2Cdannoura.jpg/496px-Minamoto_no_Yoshitsune%2Cdannoura.jpg
山口県下関市壇ノ浦 みもすそ川公園の源義経像
河内源氏の源義朝の九男として生まれ、幼名牛若丸(うしわかまる)と呼ばれた。
平治の乱で父が敗死したことにより鞍馬寺に預けられるが、後に奥州平泉へ下り、
奥州藤原氏の当主藤原秀衛の庇護を受ける。
兄頼朝が平氏打倒の兵を挙げる(治承・寿永の乱)とそれに馳せ参じ、
一の谷、屋島、壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、その最大の功労者となった。
その後、頼朝の許可を得ることなく官位を受けたことや、
平氏との戦いにおける独断専行によってその怒りを買い、それに対し自立の動きを見せたため、
頼朝と対立し朝敵とされた。
全国に捕縛の命が伝わると難を逃れ再び藤原秀衡を頼ったが秀衡の死後、
頼朝の追及を受けた当主藤原泰衛に攻められ衣川館で自刃し果てた。
その最期は世上多くの人の同情を引き、判官贔屓(ほうがんびいき)という言葉、多くの伝説、物語を産んだ。
後世の人々の判官贔屓の心情は、義経は衣川で死んでおらず、
奥州からさらに北に逃げたのだという不死伝説を生み出した。
このような伝説、あるいは伝説に基づいて史実の義経は北方に逃れたとする主張を、
義経北方伝説と呼んでいる。
この北行伝説の延長として幕末以降の近代に登場したのが、
義経が蝦夷地から海を越えて大陸へ渡り、成吉思汗(ジンギスカン)になったとする
「義経=ジンギスカン説」である。
2012年6月15日
ソフトボール1個、ピンポン玉2個、パチンコ玉3個の西瓜がなっている。
いい感じですよ!初めての場所だからでしょうか?
ソフトボール大

庭の紫陽花も朝露に光っている。

今夜は恒例の体重チェックの日、高値キープ75kgでイヤミの二つぐらいは覚悟しておこう!