1868年4月6日
前日からの西郷隆盛と勝海舟の会談により、官軍による江戸総攻撃の中止と江戸城の無血開城が決定。
山岡の下交渉を受けて、徳川家側の最高責任者である会計総裁・大久保一翁、陸軍総裁・勝海舟と、
大総督府下参謀・西郷隆盛との江戸開城交渉は、薩摩藩江戸藩邸において、
3月13日・14日の2回行われた。
第一回は以前山岡に提示された徳川慶喜の降伏条件の確認と若干の質疑・応答で終わる。
第二回では勝海舟から先般の降伏条件に対する回答が提示された。
これは、全くの骨抜き回答であり、事実上拒否したに等しかったが、西郷は勝・大久保を信頼して、
翌日の江戸城進撃を中止し、自らの責任で回答を京都へ持ち帰って検討することを約した。
ここに、江戸城無血明け渡しが決定された。
勝との会談を受けて江戸を発った西郷は急ぎ上京し、3月20日にはさっそく朝議が催された。
強硬論者だった西郷が慶喜助命に転じたことは、木戸孝允・山内容堂・松平春嶽ら寛典論派にも
驚きをもって迎えられた。
西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、
英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、
実際3月28日、西郷は横浜にパークスを訪問し、事の経緯と新政権の方針を説明している。
なおその前日には勝もパークスを訪問している。
徳川宗家の本拠たる江戸城が同家の抵抗なく無血裏に明け渡されたことから、
同年から翌年にかけて行われた一連の戌辰戦争の中で、
新政府側が大きく優勢となる画期となった象徴的な事件であった。
2012年4月6日
我が家の桜も咲き始めた。
母が部屋の窓越しにそれを見ながら朝食の雑炊を食べている。
今日から13日までショートスティに行くので、
帰って見る桜は散り始めているだろう・・・!
「一週間泊まりに行くんか・・しょうがないのぉ!」と母がつぶやく。
聞こえていないと思うが、
「ず~っとおったらこまるわ・・・」と答える。