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コメントありがとうございますー!

キーボードは無事じゃったー。ご心配ありがとー。


ね。いやーわたしもわかってませんー。

世界にほんとに模範になる素晴らしい人って、いったい何人いるんでしょう?

フランクルが『それでも人生にイエスという』の中で、古い神話の話をしてます。


ある古い神話は、世界の成否は、その時代に本当に正しい人間が36人いるかどうか

にかかっているといいきっています。たった36人です。

・・・・途中略・・・・

しかしこの神話はさらに伝えています。

こうした「義しい」(ただしい)人たちのうちのだれかが、それとして認められ、

まわりの人々、いっしょにいる人間たちにいわば「見破られる」と、

そのとたんにその人は消えてしまうのです。「引退」させられるのです。


深い。(´_`。)


それでも人生にイエスと言う/V.E. フランクル
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人間の関係/五木 寛之
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わたし五木さんの「人間の関係」についてだけで、1ヶ月は書きたい!

それくらいいろんな事が書かれてる。五木さん、「さらっ」と書いてますけど、

今回はだいぶ思い切って書いたんじゃないかな?とわしは勝手に思ってる。

それでもまだ相当遠慮して書いてる。とわしは勝手に思ってる。


たとえば親鸞の言葉を伝えてると言われている『歎異抄』(たんにしょう)からの引用と、

聖書からの引用の部分。

五木さんは『歎異抄』については、今までもたくさん書いておられますが、

今までもかなり遠慮して書いておられる。

『歎異抄』が誤解を招きやすいとされているからだと思うのですが。

今回は歎異抄から以下の言葉を引用してみえます。


「自分は父や母の供養のために念仏したことなど一度もない」


それからね、聖書からはこんな言葉を引用してる。


「もしだれかがわたしを訪ねてきても、父、母、妻、子ども、兄弟、姉妹を、

さらに自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子では

ありえない」(ルカ14・26)


ややこしい?よく読まないとややこしい!


上のふたつの言葉から、普通に考えて書きますよ。


家族を思わない という意味に感じますよね。「ええぇぇ??」って感じ。


五木さん、ここらへんの引用を載せてくるのも「おもいきったなぁー」と思いました。

「そして五木さんの中で何かふっきれた部分があるんじゃないのかなぁー?」

とわし思ってます。


で、このあとも五木さん、はっきりとは思いを書いてません。


この言葉はどこか謎めいています。常識では理解しづらいところがある。


と書くにとどまっています。

五木さん遠慮してると思うんです。

でもねーこの部分の見出し、


『愛憎をこえた親子の関係とは』となってるんです。


五木さんからの『どでかいメッセージ』だと、わし思います。



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