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コメントありがとうございます!

おおそうですか。7年周期ねー。7っていろんなとこで出てきますしねー。

なんかあるんでしょうねー。



大師のみてら 東寺

東寺文化財保存会、美術出版社、昭和40年


ちょと前に書いたんですが、この本東寺にいっしょに行った近所のおじさんに

返そうと思って、その前に少し読んだんですね。

岡本太郎さんが、寄稿してたので「おー」と思って読んだら面白い。


もう返しちゃったので、思い出しながらだいたいで書きますけど、

仏像はやさしい顔や怒った顔とかいろいろあるけど、あの怒った顔は

すごい。あんなに怒らなくてもいいやろ。と。(笑)

ぼくは仏像よりもまわりの道具のほうが好きだ。とこんな風に言っておられた。

東寺は弘法大師の寺で密教なんですけど、密教ってなんか不思議な道具とか

たくさんありますよねー。あんなのが岡本太郎さんは好きだったんですって。

なんかわっかりますね。


で、どこの寺に行っても仏像がこっちを向いてるのが気に入らない。という。

「ほーほー」おもしろそう。

つまり仏像がみなこっちを向いてる「いらっしゃい」状態が気に入らない。

で、岡本さんは仏像が勝手に向き合っていてもいいじゃないか。というのですよ。

すごい。さすが。そういわれてみれば。

それを聞いた東寺の説明をしていたお坊さんによると、昔ある時代には、

そのような仏像の配置があった時代があるそうです。


それと、仏像は見えなくていい。と言うんですね。つまり真っ暗でいい。

見えないけれども、そこには確かに仏像がある。

あるけれども見えない。見えないけどそこに在る。と。

仏教らしくなってきたでしょ。さすが岡本太郎と唸ってしまいました。


へなちょこ古本屋が独り言で書きますが、

「それは岡本さんだから、それでいいのよ」

これ昭和40年の本だし、たぶん岡本さんもばりばりの頃でしょ。

ただほんとに疲れた人や病気に苦しむ人にとっては、いつでも

目の前で待ってくれている仏像はありがたいものだと思うんですよね。

そのような人々のためにも仏像はあるわけですから。


ただ岡本太郎さんが語ったこの話、まさに今の時代に必要な仏教のスタイル

なんじゃないかとも思うわけですよねー。

物の豊かな国では、すべてが充たされてるはずなのになぜか心が虚しい人が

増えている。フランクル心理学では実存的空虚感というんですけど。

悩みが無いことに悩んじゃってる状態が出てきてるのです。

何のために生きてるんだー??って自分に問い続けるわけです。

暗闇の中に見えないけれども何かがある。何があるのだろう。

仏教もこういうスタイルを在家信者に提案していってもいいんじゃないか。


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                      最近こっち向きません。

                     「気に入らない事があるなら、とりあえず鳴けよ」


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