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近所のおじさんが誘ってくれて、昨日は東寺に行ったきた。

一日は10時から何か拝むらしい。(よく知らないので真言宗の方ごめんなさい)

「はよ行くと長いからね。終わりがけに行ったらええよ」

「ぱっ、ぱっ、ってやってくれるから」

ぱっ、ぱっというのは、お経書いてあるみたいなので、拝みに来た人の頭を

すりすりしてくれる。

飾らないおじさんなんだよな。行き帰りの車の中で東寺の話を熱く語ってくれる。

わしは興味あるので、「ふんふん」と一生懸命聞きながらも市井の人って

『こういう人かなあ』って考えてた。わしには市井の人というのが、まだいまいち

わかってない。

ただ車の運転がへたなんだよな。左のミラーが電信柱に当たった。「うへ~~」

軽自動車だからね。電信柱と10cmじゃん。話に熱中してるから、車線変更も

ぜんぜん気にしてないし、前があいてもそのままだし。

あー完全に俺と別の世界の人だ。市井の人って車の運転がへたってことかな。

って心の中でこれはどうでもいい気付きがあった。


フランクルは人生に意味を感じる価値に創造価値、体験価値、態度価値という

3つを説明してくれてる。

でもうひとつ。上田 閑照は、『真の自己』を目指す道には、

「次第次第になる」evolutionと質的な転換の二つがあると言っている。

で、わしは勝手に上田 閑照が言ってる質的な転換とフランクルが言ってる

3つの価値をいっしょのことと考えてる。

で、まず態度価値はとりあえずでかい悟りだから、横に置いといて、

体験価値についてばかりブログを書き続けていたんだよな。

創造価値というのは、たぶんわしには理解できないと思い込んでた。

創造価値っていうのは、芸術にしろ、スポーツにしろ、仕事にしろ、

とことんひとつのことに打ち込んで、努力した人に送られるものだと

考えていた。ということでだらだら人生を過ごしてきたわしには、

わからない価値と決め込んでいたんだよな。

でも今日東寺に行って感じたな。毎朝お寺に行ってる人たちの気持ちを

少し感じることができた。

わしは、創造価値のわからない半端の人間だと思っていたけど、

お寺に通うことでも充分そこの部分を補填できるんだ。

救うってこういう意味もあるのか。

すげー宗教の違う側面を発見して感動した。


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