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no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

先月末をもって、12年勤めた会社を退職しました。

5月からは東京に出て、映画ライターへの道を目指したいと思っています。


人生で一度くらい、やりたいことに挑戦しようと思いました。

厳しい世界ですが、精進していきたいと思います。


(更新もボチボチ始めます!)


追伸:今後のことに関しては、日記ブログ にも書いていきたいと思います。

こちらもよろしくです。

(2007.4.4)

とある小さな王国。オーロラ姫(マルゴ・シャトリエ)はバレエを踊ることが大好きなのだが、国では踊ることを禁じられていた。そんなある日、国庫の財政赤字を理由に、16歳のオーロラ姫に政略結婚の話が持ち上がる。そのために数十年ぶりで開催された舞踏会。オーロラ姫が恋に落ちる男性は現れるのか・・・?


まるで宝箱のようなおとぎ話。
美しいお姫様に弟の王子様もなんとかわいらしい。
白いドレスで踊る姿は羽がある天使のように神々しい。
そして、踊る理由も、踊りを禁ぜられた理由も、ただひとつ、愛のため。


肖像画家の前で、ドレスをとめている金具をすっと抜き、白い下着姿で踊るオーロラ姫。幼さが残る少女の中にも宿る官能。美しいシーンだ。そして、それを「描く」ということにも、特別な意味が感じられる。言葉を交わさなくとも、2人の中で何かが繋がっている・・・


すべてのシーンがファンタジーのような、夢物語。
でも、これはパリ・オペラ座のエトワールをはじめとするバレエダンサーたちで作り上げられた、パワフルな舞台でもある。舞踏会のたびに披露される踊りは、あるときにはエネルギッシュに、あるときには狂気に満ち、あるときには官能的に。そのバックがあってこそ、オーロラ姫の静かなバレエが対照的に映える。


踊りと言うのは、歌や絵画と同じように、ほとばしる思いを表現するものなんだということを改めて感じさせてくれる。そして、これを映画化した思いというものも。


しかし・・・劇中の「ジパンゴ国」って、日本のことだよね(汗)。


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さて、今年のアカデミー賞主演男優賞、フォレスト・ウィティカーの作品。今年のアカデミー賞主演賞はこのキングと「クィーン」で、どちらも実在の人物ってところがポイントですね。しかも脚本を手がけたのはどちらもピーター・モーガンと言う人だそうで・・・。


1971年、アフリカのウガンダ共和国。クーデターにより政権を掌握したアミン将軍(フォレスト・ウィティカー)は、1979年に同じくクーデターで失脚する。その間、彼の政権は恐怖政治となり、虐殺されたウガンダ国民は30万人と言われている。この作品は、その事実と、ウガンダにやってきたスコットランド青年医師ニコラス(ジェームズ・マカヴォイ。「ナルニア」ではわからなかったけど、若いころのヒュー・グラントと似てない?)と言う架空の人物の行動をドッキングさせながら、物語を進展させてゆく。


ウガンダの話なのに、なぜ「スコットランドの最後の王」なんだろう?と思うが、ウガンダをはじめとするアフリカの国々の悲哀の歴史がそれを物語っている。


地球儀をくるくる回して、目をつむり、指で指した国に行こう―若い医師のそんな「冒険心」が、理解できる気がした。しかし、最後には・・・ボランティアだろうが何だろうが、生半可な気持ちで行ってはいけないということがわかる。自分と言う存在がどう影響を及ぼすのか。そして、常に自分は余所者であることを意識してなければいけないのだ。命を危険に晒す状況が来たならば、脱出し母国に帰るか、その国民になるかどちらかだ。ただし、後者の場合は、それが受け入れられるかどうかは別の話。


クーデターとは言え、アミンは貧しい出身ながらボクサー・チャンピオンとして活躍、その後軍人に転身し将軍にのし上がった。国民の人気もあり、人々を魅了する話術や人間性も持っていた。しかし・・・状況が変われば、人間はこれほどまでに変わる。この物語は、アミン将軍という特殊な人間の話ではなく、もっと普遍的な人間の本性を突いている。


そしてさらに恐ろしいのは陰で操る諸外国の動き。自分たちは表舞台には登場せずとも、自分たちに有利な方に政権を転換させるだけ。ウガンダは、表面的には「自国民同士が争っている国」のひとつに過ぎない。


印象的なのは、最後にニコラスを助けるウガンダ人医師の言葉。「君は信頼されるだろう。白人だから。」
そして、自分はウガンダ人である運命を受け入れ、果ててゆく。


「ホテル・ルワンダ」、「ダーウィンの悪夢」・・・何故世界はこうなってしまうのだろう?

第2のアミン、第2のニコラスは、いくらでも出てこよう。


ウガンダ共和国の政情は、いまだ安定していない。


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「キング 罪の王」と「ラストキング・オブ・スコットランド」。
同じ「キング」で迷いましたが、前者が1週間のみの上映なので先に。後者は明日観に行こうかな。


アメリカ、テキサス。エルヴィス(ガエル・ガルシア・ベルナル)は海軍を除隊し、まだ見ぬ父デヴィッド(ウイリアム・ハート)を訪ねてやってきた。父は牧師となり、妻、息子、娘と家庭を築いていた。父が結婚する以前に産ませた子ども・・・それがエルヴィス。その事実を知らされた父は彼を排除しようとする。


兄が弟を殺す「カインとアベル」。
知らずに父を殺し、母を妻とする「オイディプス王」。


これらのプロットが入ってることは予備知識がなくとも想像できる。

また、舞台に選んだテキサスの町コーブス・クリスティも「キリストの死体、キリストの証」と言う意味を持つという。(公式HP より。)


そのほかにも・・・多分キリスト教徒ならばわかるであろう隠喩が、すごくちりばめられてるような気がする。


射抜かれた鹿は神への生贄なのか。
水で流してもなかなか消えない鹿の血は、アベルの血にも似ている。
庭造りに精を出すエルヴィスは、一生土地を耕して生きていく宿命を背負ったカインのようにも見える。
軍艦「ATHENA」(ギリシアのアテナ神)の刺青は神が与えたカインの証を思い起こさせるし、またギリシア神話の「オイディプス王」をも再び喚起させる。


そして、父の築いた家庭がエデンの園だとしたら、自分のいるモーテルはエデンの東。
エルヴィスが食すジャンクフードやビールも父の家庭にはない。
彼はピザ屋で働き、父は牧師、弟は大学で神学を専攻、進化論に異を唱える。
どこまでも対照的である。


彼は、一番残酷な方法で、父の家族を苦しめようとする。
まるで義務であるかのように遂行する。
その表情には憎しみ、嫉妬と言った感情は感じない・・・何を考えているかわからない、ガエル・ガルシア・ベルナルの演技。


「懺悔すれば、許される。」
父はそう言った。懺悔・・・それが「免罪符」だ。

彼は勝ったのだ。
紙で作った王冠を、彼は自慢げに頭に載せた。そして玉座についた。


「KING」は王であり、神であり、キリストでもある。
しかし人は皆、カインの末裔であり、原罪を免れない。
ここで描かれたのは神話の世界ではなく、れっきとした現代である。


彼の父の前での懺悔は、本心からか、皮肉なのか。
私は本心ではないような気がしている。


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人間は便利に出来ている。


東京の汚染された湾岸地帯。世間から見捨てられたようなその場所で、真っ赤な服を着た女性の死体が発見された。鑑識の結果、「F18」とされたその女性の爪の間に、刑事の吉岡(役所広司)の皮膚が付着していた。しかし、吉岡には全く見覚えも見の覚えもない。犯人は自分なのか?次々と起こる類似した殺人事件に、吉岡はいつしかF18の亡霊に悩まされてゆく・・・黒沢清監督・脚本作品。


何もなかったことにしましょう。
過去は振り返らないで。
見なかったことにして。


こんな気持ちの切り替えは、時として人間の記憶や目をも欺くことが出来るのか。
いや、記憶や目は常にこのように曖昧なものなのか。

もしかしたら人間は自分自身を欺きながら生きているのかもしれない。
思い出したくない過去から。辛い現実から。

それが悪いと言うことではなく、そうしなければ前を向いて進めないときもある。
しかし、その犠牲者たちはどうしようもなくそこに取り残される。
時折起こる叫びや地震はその表れだ。


結末はさすがにここには書けません。


しかし・・・ちょっと映画としてはどうでしょう。
連続殺人は付け焼刃的な感じで個別のストーリー同士の関連性が薄い。
湾岸地帯の不毛さは生々しいのですが、特にF18の葉月里緒奈はビュんビュん飛びすぎではないでしょうか?正直、怖くないんですよね。

役所さんのほか、伊原剛志やオダギリジョーや加瀬亮など、意外なところで役者は揃ってるんですが、もったいない。


しかし、役所広司さん、出まくってますねえ。
本作のほか、「それでもボクはやってない」「アルゼンチンババア」「バベル」・・・
こないだ「バベル」の記者会見をGYAOで見たせいか、役所さんばかり観てるような気がします。


最後に一言。「姑獲鳥の夏」と「シックスセンス」を思い出しました。


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