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no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

R指定:心臓の悪い人


「TZAMETI(ザメッテイ)」とは、グルジア語で数字の<13>を意味する。
一般的に不吉とされているこの数字。しかし、その通りとなるかどうかは・・・まさしく運次第。


グルジア移民であるセバスチャンは、ある家庭の屋根を修復するため、工事に来ていた。そこでふと、大金を稼げる話を耳にする。チャンスに賭けようとした彼は、パリ行きの切符の入った封筒を盗み、列車に乗り込む・・・。


たどり着いた館には、恐るべき「遊び」が待っていた。命を弄ぶ「遊び」。
それは、輪になって相手の頭に拳銃を当てる、ロシアン・ルーレット。
そう、セバスチャンはその「賭け馬」の役割だったのだ。
自分の愚かさを後悔する余裕もない。13の背番号がついたシャツを着せられ、銃を持たされる。


このロシアン・ルーレットで生き残るには、自分の銃で相手を殺してもダメであり、後ろの人間が外すか、さらにその後ろの人間に殺されるかである。だから、引き金を引く早さにも左右される。


命を張った賭けに大金を賭けて興じる男たち。
古代ローマ時代、コロッセオで奴隷を殺し合わせるのを見物している人間のようだ。


そして、その命の崖っぷちに立たされ気が変になリ、狂ってゆく「馬」たち。
人を殺したこともないセバスチャンが、初めて銃を持ち、殺人への躊躇から自分が生き残るためのギリギリの線を進む。その転落の構図。

モノクロの画面に、吐く息、汗、涙、血。小さな部屋に詰め込まれ、窒息しそうだ。
観ている側にも緊張感が背中に流れる冷や汗のようにドロリと伝わってくる。


人を人とも思わない感情、欲望、嫉妬、復讐心・・・そういった負の感情が渦巻く。
大金を稼いだ人間も、人間の業には逆らえない。
キレイなものなど、何も登場しない。それが、「13/ザメッテイ」。


グルジア出身、1975年生まれの監督・脚本のゲラ・バブルアニ。
これがデビュー作だそうだが、作品同様、末恐ろしい。


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「ナンダこのタイトルは。」
いつものごとく、詳細な内容は知らない。ただ、タイトルに惹かれて観に行った。


広島。父は失踪、母は借金で働きづめで亡くなり、兄妹の二人暮らし。兄(塩谷瞬)は高校を中退し工場で働くも、稼げるお金は限られている。電気は止められ、灯油を買うお金もない。いつもイラつき、酒を飲んで妹に当たることもある。そんな家庭に育ちながら妹の初子(東亜優)は、文句も言わずに、懸命に生きる。お金がなくて高校にも行けない。昔の幸せだったころの思い出と、ボーイフレンド三島くんの存在だけが、初子の心の支えだった・・・


「『赤毛のアン』は嫌い。だって、あんなに文句ばっかり言ってるのに、とんとん拍子に幸せになっていくなんて、ありえないよ」
母が好きだった本を大事に抱えながらも、初子は言う。
そおだ。
そしたらこの映画のストーリーは、初子の言葉と一緒で、「ありえないよ」。


原作はマンガ。
うん、マンガの世界なら許してしまえる気もする。
しかし、なんだか映画にしてしまうと、救いようのない感じがして、またなんとなく現実感がなくて浮遊してて、居心地が悪い。「ありそうだけど、これはないだろ」というような、TVドラマにありがちなツッコミをしてしまいそうだ。


観ていて、「幸福な食卓」を思い出した。似てる。いや、対照的と言うべきか?
「幸福な食卓」はうまく昇華させているが、この作品は最後の望みさえ儚げで、希望は見出せない・・・


切ない初恋の気持ちは凄く伝わってくる。


でも、本作観る前にスピンオフの予告編観せるって、アリなのかなあ・・・


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「演奏家は音楽の娼婦だよ。いろんな音楽を愛するんだからね。」
ソ連からロシアへ―動乱の中に生きた、二人の音楽家。


アレクサンドル・ソクーロフ監督。天皇ヒロヒトを描いた「太陽」の監督、と言った方がわかりやすいだろう。
今回は、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチと言うチェロリストと、ガリーナ・ヴィシネフスカヤと言うソプラノ歌手の夫妻の生き様を、まさに凝縮して100分と言う時間の中に描き出した。


夫は1926年生まれ、妻はその翌年に生まれていることから、どんな世界状況だったかは理解できる。ソ連と言う国家において、彼らは「異端」であった・・・反体制派として、ノーベル賞作家ソルジェニーツィンらとともに祖国を離れる。
しかしそれが彼らの音楽は国にとどまることがなかった原因のひとつでもあった・・・世界各国で演奏する機会ともなったからである。音楽はまさに国境などないのだと思わせられる。

彼らが祖国に戻ることを許されたのは1990年。16年後のことだった。

映画は、第一部は金婚式を迎えた夫妻へのインタビュー中心、第2部はウイーン・フィルでの演奏シーンも挿入される。指揮を執るのは小澤征爾。彼はロストロポーヴィチの弟子であった。小澤の眼光の鋭さにハッとさせられる。


タイトルこそ「ロストロポーヴィチ」だが、これは決してひとりだけの物語ではなく、まさに妻であり天才ソプラノ歌手のガリーナとの2人3脚の人生である。そして、2人とも、最後まで現役であることに執着する。そこには、確固たる信念と達観しきったまなざしが強く感じられる。


ソクーロフ監督はそんな二人の人間性と、彼らのworksを丁寧に撮り続ける。お互いに、芸術家だから理解できる感性。そんな気がする。


ロストロポーヴィチは80歳でこの世を去る。最後まで現役だった。
舞台に立ったことのあるものなら分かる・・・。舞台の上こそが、至福の悦びなのだ。


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「生きて、何かになりなさい。」


エチオピアにもユダヤ人がいた・・・その歴史はソロモン王とシバの女王にさかのぼる。1984年、エチオピアが干ばつに襲われたとき、スーダンの難民キャンプに押し寄せた人々の中からユダヤ人をイスラエルに移送させる「モーセ作戦」が行われた。そんな中、ある一人のエチオピアの少年は、ユダヤ人と偽ってイスラエルにゆくことを母親から命ぜられた。生きるために。「何かになるまで、戻ってはいけない」。動乱の中、旅立った少年の行く末は・・・


9歳の子ども時代から、自分の本名を隠し、ユダヤ人「シュロモ」であると偽リ続ける。
どうやって「自己」を確立できよう?
全く知らないユダヤ教の教え、わからない言語。
彼は、どこにいても「よそ者」であることを意識しなければならなかった。
何かに帰属できないと言う感覚は、どれほど人を不安にさせるものだろうか・・・


そして、「約束の地」イスラエル。そこは、アフリカの難民キャンプとははるかにかけ離れた、富める土地であった。食べ物は溢れ、物質的にも豊か。教育も受けられる。

しかし、シュロモにとっては「約束の地」はエチオピアなのだ。彼はいつも月を見上げて祖国や母のことを思う。


ユダヤ人と一口に言っても、その歴史が物語るように、単純ではない。「白い」ユダヤ人には「黒い」ユダヤ人を蔑視するものもいる。また、ユダヤ人の中にも左派、右派がある。混沌とした中東の情勢の中で、彼らはいつも緊張の中で生きている。


そんな中でも、シュロモはいつも母の言葉を思い出す。「自分は何になったら良いのか・・・?」
彼は、彼なりに苦労して自己を確立した。自分の生きるべき道をも。
そして、支えてくれた家族や友人たち。
彼は、よそ者ではあっても決して孤独ではなかった。


簡単には解決できないイスラエルとパレスチナの関係、そしてアフリカの難民の劣悪な状況。

私たちは、シュロモの目を通して、「背景と思われるもの」が実は全てであるという事を、直視しなければならないのだ。



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P.S.シュロモ役を演じた役者はみんな素晴らしい!しかも、青年のシュロモはかなり男前です。


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2005山形国際ドキュメンタリー映画祭で小川紳介賞・国際批評家連盟賞を獲得した本作。

同年には、「ダーウィンの悪夢」なども出品されていました。


その時山形に住んでいながら、この作品は観たことなかったんです。ドキュメンタリーは苦手な部類だと思い込んでいました。実は、上映中に寝たというトラウマがあるからです・・・(私が映画館で寝たのはその1本だけです汗)つまり、ドキュメンタリーは「退屈」っていうイメージがあったのですね。


しかし、ドキュメンタリーにもいろいろあると気づきました。当たり前ですが、作品の数だけ、違う。もはや、ドキュメンタリーの範疇を決定することは難しくなってきているのかもしれません。


前置きが長くなりましたが、本作。
がんを患う母親の晩年を撮ったものです。


普通、なんですよ。
とてもがんを患っているようには見えない明るいお母さん。趣味で絵を描き、畑仕事に精を出し、コスモスを植え、ぶり大根を料理する。がん保険でクルマと耕運機を購入。孫もいるが、大きいばあちゃんもいる。

でも、時折入る入院治療の映像で、ふと「現実」に帰る。本人も、家族も。

けれど、お母さんには、死への恐怖や苦しみは感じられない。「闘病」と言う言葉はそぐわない。
出来るだけ長く生きられますように。せめて、大きいばあちゃん(91歳)よりは長生きしないとね。


そう言っていた、お母さんは亡くなる。その死に顔は安らかでキレイだ。
幼い孫たちは、神妙な顔つきで見入る。初めて遭遇する、人間の死。


我々も、このような体験をしてきたはずだ。
その現実のシーンが、この映画によって反芻させられる。
特別なことではない・・・。


だから、死というものはありふれた日常なのだと思い知らされる。
そして、自然の摂理の一部なのだと。
「死んだら宇宙の塵になりたい。」
「死んだら土に帰りたい。」

そして新たな命が宿る。
この世にある自然のなかで、その摂理に逆らえるものなどはいない。


「チーズとうじ虫」。
これはカルロ・ギンズブルグと言う歴史家の本のタイトルから取られている。
16世紀、メノッキオと言うイタリアの粉挽き屋が、牛乳からチーズが塊となり、そこからうじ虫があらわれることを例えて、人間の世界を表現した。全てはカオスであり、それが塊になって世界が出来上がる・・・


その観念はキリスト教の真理に反したわけだが、我々には、死して神に召されるよりも、死して土に帰る方が「死」に対して寄り添えるような気がしている。


公式HP


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