no movie no life -28ページ目

no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

人は皆、罪人。


将来を嘱望され、司教のお気に入りとして若くしてメキシコのとある教区に派遣されたアマロ神父(ガエル・ガルシア・ベルナル)。そこで美しく神心深い娘アメリアと出合ったアマロは、互いに惹かれあい、とうとう罪を犯してしまう。アメリアと関係を持ち、妊娠させてしまったのだ。「神父」は妻帯できない。悩んだアマロのとった行動とは・・・


赴任したばかりのアマロは、教区に溶け込もうと、そして神に仕えようと純粋な信念を持っていたはずだ。
妻帯についてアマロは意見を求められて、こう述べる。「認めればいい。認めないから不自然な形になるんだ」。


神父と言っても、様々いる。
公には妻帯してないものの愛人がいたり、権力を振りかざしたり。
神父も結局は俗人だと言うことだ。
教区の人間も見て見ぬフリをして、受け入れる。
一方で、神父の「罪」を暴こうとする新聞記者もいる。


アマロは、保身のためにさらに自分の手を更に罪深く染め、堕ちてゆく。
嘘は嘘でしか覆えない、悪循環だ。犠牲者は増える。


アマロにとって、これから歩む人生は、どんな道なのだろう。
一生償うことの出来ない罪を背負って、死ねば地獄の業火に晒されると知りながら、現世では聖職者の顔をして神を説く。ゆくゆくは出世して司教になるかもしれない。キリスト教のヒエラルキーは法王を頂点とした完璧な三角形だ。


現実問題として、教会・聖職者の腐敗と言うのはこれまでの歴史の中でも珍しいことではない。信者も肥大化し、宗派が分かれ、互いに理解をしあうことも出来なくなる。他宗教となればなおさらだ。それが殺し合いやテロの火種になる。人はもはや戒律に縛られている。
でも、最初は純粋に「救い」のための神や宗教だったはずである。


世界各国で上映禁止運動が起きた一方、第75回アカデミー賞では外国語賞にノミネートされた本作。
アマロが神父でなかったら、美しいラブストーリーだったに違いない。


ブログランキング に参加しています 

mixiは閉じられたコミュニティなので、ブログがあれば必要ないかなあと思ってたのです。が、結構映画業界の方から「mixiやってますか?」と言われるので入ってみることにしました。右も左もわからない新参者で、まだ使いこなせてはいませんが・・・少しでも幅が広がればいいなあ。

どこまで幻想は幻想で許されるのか?


ダイアン・アーバス(1923~1971)というアメリカの女性カメラマンへのオマージュ作品。彼女は、性倒錯者や巨人、小人、ヌーディストなど一風代わった被写体を用いた。この映画は、彼女が何故それらに惹かれだしたのか?と言うことに着眼し、あくまでもフィクションとして冒頭に断っておきながら、作られた。ダイアン役をニコール・キッドマンが演じる。監督は鬼才と呼ばれるスティーヴン・シャインバーグ。


相変わらずほとんど情報を入れていかないのですが、これはたまげた。
原題「FUR」、邦題「毛皮のエロス」なんですが・・・毛皮よりも「毛」そのものへのフェティシズムを感じました。体毛、髪の毛・・・。あのタイトルクレジットの出し方と言い。
辞書を見ると、「FUR」の第一義語は「哺乳類の柔毛」とか「柔毛のある獣」なんですよね。「毛皮」はその次。


この映画では、ダイアンが変わった被写体に目を向けるようになったのは、アパートの上の部屋に引っ越してきた多毛症のライオネル(ロバート・ダウニーJr.)とのかかわりがキイであるとしている。


それは、抗えないほどの欲求だった。
「あなたの写真を撮りたいの」。初めは、仮面をかぶった男への興味だった。
しかし、ライオネルがその正体を表すや、彼女はその下、その下・・・と彼の身体を知り尽くしたいと思いたくなる。体中毛で埋め尽くされた身体の下にあるもの、皮膚。そして、ライオネルの心。彼女は、その人間の下に隠れてあるものを撮りたいと思った。まるで、ハイド&シークが好きな子どものように、一方で愛を貪るように。


しかし、それほど「エロス」を感じない。ニコール・キッドマン体当たりの役かもしれないが、響かない。しかも「ライオネル」が・・・もうちょっと技術的になんとかならなかったのか?と思うくらい、苦笑してしまった。
どこまで幻想は幻想で許されるのか?


でも、毛って不思議。その人間の肉よりも、髪のほうが長く残る。
昔、京都のお寺で、人毛を含みながら作られた綱のようなものを観たことがあります。
・・・驚愕、恐怖感を感じました。大昔の人の髪の毛が、そこに現存するということですから。
でも、それに愛を感じる人もいるわけですよね。
そういう意味では、人間の方が、よっぽど不思議か。


ブログランキング に参加しています 


KC370228.jpg


観た後に、動悸が止まらなかった映画ははじめてだ。(単なる病気か?)この映画は、リピーターが出るんじゃないかしら。


19世紀、マジックが流行するロンドン。「グレート・ダントン」ことアンジャー(ヒュー・ジャックマン)と「プロフェッサー」ボーデン(クリスチャン・ベール)という因縁で結ばれた2人のマジシャンが、稀代のマジックに挑む。それは「瞬間移動」。そのトリックは如何に?そして、トリックがトリックを生む不可思議な展開。観客は、それを見破ることが出来るのか?原作はクリストファー・フィスター「奇術師」。


公開初日に配られたのがこのステッカー(写真)。イラストレーションは、荒木比呂彦。おお、「ジョジョの奇妙な冒険」の作者ですね?まず、ネタバレしてはならないと思うので、疑問ある人はこちら へ。私は異議を唱えたいところもあるのですが・・・なお、公式HPモバイル版ではネタバレ掲示板もあります。


芸は身を滅ぼす。
この物語の魅力でありおぞましい点は、マジックのためにどこまで犠牲を払えるか、ではないだろうか。
そして、そこまでさせるのは、「自分の仕事」により得られる快感よりも、「競争心」「嫉妬」が勝っていたのだろうと思う。


プレゼンに優れ、ステージ上でも花があるアンジャーと、地味ながらマジックとしては常に上を行くボーデン。出し抜き、出し抜かれ、復讐には復讐を・・・その成れの果てがこの結末だ。私は、ボーデンのトリックは早めに読めたのですが、最後のアンジャーのマジックについては分かりませんでした・・・。まさかそこまで自分を追い詰めるとは。


「消えるものの行方は誰も気に留めない。」
人を喜ばせるという舞台の裏は、なんて厳しく哀しい世界なのだろう・・・そして、それを観て笑ったりけなしたりする観客って、怖いよね。どんどん刺激がエスカレートする。現代も、それは変わらないね。


単なる奇をてらったマジシャン同士の対決ではなく、人間の持つ性質を深く掘り下げ、浮き彫りにさせたのはすごいと思う。エンタメであるがそれに終始してないところが、この映画の深み。


ちなみに、二コラ・テスラは実在の人物だそうです。


ブログランキング に参加しています 

〈プラチナファンタジイ〉 奇術師/クリストファー・プリースト
¥987
Amazon.co.jp

ペーパー・バック・ベイビー。(意味が違う?)


南アフリカのスラム。「不良、チンピラ」と言う意味の「ツォツィ」を名乗る青年は、強盗を犯しながら生きてきた。過去を封印し、未来に絶望しながら、夜の街を彷徨うツォツィ。ある雨の晩、裕福な夫婦の家の前に停めてあった車を盗んだツォツィは、バックシートに赤ちゃんが乗っていたことがわかる。


ツォツィ。顔を見ると若干幼さが見える。そんな彼の元にいきなり舞い降りてきたもの。それが男の赤ん坊だ。

何が彼をそんなに変えたんだろうか?

私はずっと考えていた・・・赤ん坊は、確かに素晴らしい、光のような存在だ。観ているだけなら、嫌う人はいないだろう。
でも、育てるのは大変だ。どこかにおいてくるなり、誰かに託すなり出来たはず。
何故彼は、最終的に自分で面倒を観ようと思ったのだろう?


拳銃を手にし、人を脅すことでしか人間関係を築けなかったツォツィ。しかし、初めて拳銃が通用しない相手が現れた・・・。ただ泣き、食べ、眠るだけの赤ん坊。当然ながら満足に世話できないツォツィ。近所の乳飲み子を抱える若い女性を脅し、母乳を飲ませるよう頼む。「この子を私にちょうだい。世話するわ。」しかし、彼は赤ん坊を手放そうとしない。


ツォツィの中に目覚めた父性。そして、蘇る記憶。自分の生まれ育った場所、母への愛、得られなかった「普通」の幸せ・・・。赤ん坊「デヴィッド」に見せた自分のかつての家、南アフリカの底辺の社会で生きる子どもたちは、ツォツィなりの「教育」だったのかもしれない。それは紛れもなく「デヴィッド」への愛情だったのだ。


彼は、結局、赤ん坊の帰るべき場所に返したのだろう。
裕福な場所がよいと思ったわけではない。しかし、家族と言う唯一無二のもの、ツォツィが得られなかったものを、赤ん坊に託したかったのだろう。


その後、ツォツィがどうなるのかはわからない。
でも、流した涙は、「ツォツィ」ではなく「デヴィッド」の涙だったと思う。


ブログランキング に参加しています