人は皆、罪人。
将来を嘱望され、司教のお気に入りとして若くしてメキシコのとある教区に派遣されたアマロ神父(ガエル・ガルシア・ベルナル)。そこで美しく神心深い娘アメリアと出合ったアマロは、互いに惹かれあい、とうとう罪を犯してしまう。アメリアと関係を持ち、妊娠させてしまったのだ。「神父」は妻帯できない。悩んだアマロのとった行動とは・・・
赴任したばかりのアマロは、教区に溶け込もうと、そして神に仕えようと純粋な信念を持っていたはずだ。
妻帯についてアマロは意見を求められて、こう述べる。「認めればいい。認めないから不自然な形になるんだ」。
神父と言っても、様々いる。
公には妻帯してないものの愛人がいたり、権力を振りかざしたり。
神父も結局は俗人だと言うことだ。
教区の人間も見て見ぬフリをして、受け入れる。
一方で、神父の「罪」を暴こうとする新聞記者もいる。
アマロは、保身のためにさらに自分の手を更に罪深く染め、堕ちてゆく。
嘘は嘘でしか覆えない、悪循環だ。犠牲者は増える。
アマロにとって、これから歩む人生は、どんな道なのだろう。
一生償うことの出来ない罪を背負って、死ねば地獄の業火に晒されると知りながら、現世では聖職者の顔をして神を説く。ゆくゆくは出世して司教になるかもしれない。キリスト教のヒエラルキーは法王を頂点とした完璧な三角形だ。
現実問題として、教会・聖職者の腐敗と言うのはこれまでの歴史の中でも珍しいことではない。信者も肥大化し、宗派が分かれ、互いに理解をしあうことも出来なくなる。他宗教となればなおさらだ。それが殺し合いやテロの火種になる。人はもはや戒律に縛られている。
でも、最初は純粋に「救い」のための神や宗教だったはずである。
世界各国で上映禁止運動が起きた一方、第75回アカデミー賞では外国語賞にノミネートされた本作。
アマロが神父でなかったら、美しいラブストーリーだったに違いない。
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