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no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

こんなに大きくなったんだね、ハリー。


ハリー・ポッターシリーズの5作目。冒頭思ったのは、ダニエル・ラドクリフくんはじめ成長著しく、そろそろというか今度こそ役を演じるのは難しいんではということ。ネヴィル・ロングボトムも背がでかい!アタマひとつ抜けてますよね。ハーマイオニーはホントきれいになったなあ。なじみがあるのはいいんですが、ダニエル君ももう18歳だし。最後までやるとは言ってるそうですが、どうなんだろう?劇中、昔の映像が結構流れるけど、「賢者の石」のころはホント可愛かったよね~ハリーのイメージそのもので。


さて、内容はどんどんヴォルデモードとの戦闘色が濃くなっていきますね。迫力はあるんですが、特に今回はハリーの孤独が非常に強くて、観てて辛かったです。学校生活のシーンはあまりないし、魔法省も悪どくて・・・。

しかし「ハリーの本当の秘密、解禁」とあったけど、そんなにけったいな秘密あった?予言のこととかな?ハリポタの最終巻も販売され、主要キャラの2人が命を落とす結末とのことでしたが・・・できれば死人は出さないでほしかった。


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愛と音楽の洪水。人間は更なる高みへ。


モーツァルトのオペラ「魔笛」のケネス・ブラナー監督による映画化。原題「The Magic Flute」。


オペラの映画化と言うと「オペラ座の怪人」が記憶に新しい。あれはオリジナルに比較的忠実だったが、この監督は思い切ったアレンジをしてきた。オペラの歌詞は英語で、舞台も第一次世界大戦の戦場、と言う筋書きになっている。だから、ホントのオペラを味わいたい、となれば「ちょっと違うな」という人もいるだろう。


しかし、私は堪能できました。だって、映画の最初から最後まで丸ごとモーツァルト。これほど贅沢な映画はあるだろうか?もちろん字幕付きなので、ストーリーをきちんと把握することもできる。これほど、愛と音楽に溢れた映画は観たことがない。人が人を愛することの素晴らしさ。そして「魔笛」に象徴される、音楽の力。人間の叡智により果たされる争いのない平穏な世界。上へ、もっと上へ。美しい旋律とともに高揚した人間の魂は、そこから世界を俯瞰する。


・・・なんという人間讃歌だろう!
「魔笛」を愛して止まない人間が、作曲家の世界観を見事に展開することに成功した一本ではないだろうか。


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「彼は負け犬よ」。それでも、希望をすてない。
アキ・カウリスマキ監督「敗者3部作」の最終作。


フィンランド、ヘルシンキで警備員として働くコイスティネン(ヤンネ・フーディアイネン)は、仕事仲間とも打ち解けられず、日々単調で孤独な生活を送っていた。彼の気の置けない友人と言えば、ソーセージ屋の女主人だけ。そんな彼の前に突如として現れた女性ミルヤ。彼は、たちまち彼女の虜になってしまうが・・・


私はカウリスマキ監督の作品は初めて観たのだが・・・この監督は、いつもこういう撮り方をするんだろうか?とても面白い。極端にセリフが少ないし無表情だ。しかし、ちょっとの間や、視線や、音楽や、小物や、はたまた影像には映ってない何か。そういったもので、物事や感情を表現している。それが、奇をてらってなくて、観ている方にもしっくりくる。言葉がなくても混乱しない。むしろテンポよく、スムーズである。シンプルだが、それは計算されたシンプルだ。


男は、転がるように不幸になってゆく。女は、実はマフィアの愛人で、男のことなど愛してはいなかった。まんまと騙され、全てを失った。しかし、そこに悲壮感は感じられない。なぜだろう。「敗者3部作」・・・観る前から、敗者だってことは分かってる。映画でもミルネがコイスティネンのことを「負け犬」と宣言しているのに。


結局、男は自分のことを「負け犬」だなんて思ってないんだわ。いくら周りがそう決め付けても、本人が人生に希望を持っているからしょうがないよね。騙されていようとも、男が女のことを大切に思う気持ちが変わらず心の中にあった。そして、ソーセージ屋の女や街の少年や犬など、小さい存在かもしれないけれど、男は孤独ではなかった。多くの人やものに囲まれて不自由なく暮らしていても絶望を感じる人間がいる一方、仕事も家も失っても、彼の心は闇ではなかった。


英題「Ligts in the Dusk」・・・たそがれどきのあかり、と言う意味か。あかりが複数形なのがよいね。あかりは、明るいときにはみえないものだ。暗くなって街にあかりがつくように、人間も心のあかりを一つ一つ確認しながら歩いてゆく。


しかし、この映画に登場する家具や家電、クルマがかわいらしい!色が、赤や黄色、青でとてもカラフル。部屋の壁もグリーンだったり。ポストは黄色だ。フィンランドの街並みは決して派手ではなく、どこかメルヘンを感じる。そんなところも、フィンランドの街がはらむ暖かさなのかもしれない。


(ああ、気になったのはどこでもタバコが出てくるところかな。ギター弾くときくらいタバコは諦めなよ・・・)


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ゴールデンゲートブリッジ。自殺の名所。


2004年から2005年の1年間、カメラを設置して「橋」を撮り続ける。次々と身を投げる影像に、自殺者の家族、自殺未遂者のコメントを交えながら、「自殺」をクローズアップしたドキュメンタリー作品。


自殺がタブーであるキリスト教国においても、自ら命を絶つ人間は多い。
美しい観光名所が、なぜそんなにも悩める人々の心を揺さぶるのだろうか。


自殺と言う結果を選ぶ者の思いは、それぞれ違うのだろう。ここで描かれた自殺者は大半が精神を病んでおり、薬を常用している。病気になった原因は不明だ。

しかし、残された家族や友人の葛藤もまたすさまじいものである。自分を責める家族、自殺することで自分を解放した、楽になったと捉える家族もいる。


この映画の意義は、自殺というタブーに、遺族の協力を得て、挑んだことではないだろうか。近親者の死はただでさえ乗り越えるのは大変なのに、閉ざしたい口を開き、映画に協力することは、並大抵ではないはず。しかし、このままではいけないと言う気持ちや、もし同じことで苦しむ遺族がいたならば支えになりたいという気持ちもあってのことではないだろうか。


死んでしまった人々の思いは、遺書でもない限り、我々には分からない。けれども、残されたものの思いは明確に分かる。


この映画によって、即、自殺阻止に繋がるというわけではないだろう。しかし、人生の局面で死を選びたくなったときに、残されるものたちの悲しみを思い測ることは、抑止力になるはずである。自分は、ひとりだけで生きていないことを思い出すのだ。
そして、自分とは無縁だと思う人々にも、自殺は他人事ではないと考えるきっかけにはなるのではないだろうか。


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「こうせなあかんってこと、ないから。」
その言葉が柔らかい。そうだ。「こうしなければならない」なんてことは、人間のアタマの中で作り上げるものであって、それにいつしか縛られている。


奈良県のグループホームで働く真千子(尾野真千子)は、しげき(うだしげき)という老人の介護をする中で、彼の心がわからずに悩む。そんなとき、とあることから二人は山の中に迷い込んでしまう。2007年カンヌ国際映画祭グランプリ受賞。河瀬直美監督作品。


山間の土地の施設の近くの畑で、二人は追いかけっこをする。ポスターにもなっているその幾何学的な模様の畑は、とても人工的で、不自然な気すらした。一方で彼らが迷い込んだ森は、自然そのもので、優しくて、容赦ない。


しげきのリュックから出てきた1973年と言う冊子。それは、妻が亡くなってからの日記なのだろう。34年の歳月を、たった1人で生きてきた。そして、年を重ねるごとに、妻への思いのみが強く残っていった。


一方、真千子も自分の子どもを亡くすという傷を抱え、自分を責めていた。大切な人を亡くした悲しみは痛いほど分かるが、他人にはどうにも出来ないことであることも分かる。自分でなんとかしなくちゃ。そういう気持ちだけが空回りしていた。


でも、人を悼む気持ちは、克服するものでも、なんとかしなくてはいけないものでもない。森の中で、いつしか真千子の心は、しげきを守り無事に帰らなければいけないという庇護者の気持ちから、しげきの心に寄り添い、しげきの心のままにしてあげようと気持ちに転じた。大樹に抱かれ、土に返ろうとしたしげきに触発されるように、彼女も森を歩いた。


森は、俗世間から隔離された神域のように、あるいは黄泉の国のようにすら見える。はるか昔、奈良の地で人々が亡き王族のためにつくった殯の宮は、現代にもひっそりと生きていた。生と死のはざまのような非日常の場所で、人の死と言う非日常に傷ついた人間が、土にならされてゆく。人間も確かに自然の一部なのだ・・・。


生まれてくること、死んでゆくこと、どちらにも痛みがある。そのような痛みの繰り返しの中に、我々も確かにいるのだ。


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