no movie no life -20ページ目

no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

09日(水)「バベル」ワーナーマイカル板橋
10日(木)「アモーレス・ペロス」立川シネマシティ
13日(日)「恋愛睡眠のすすめ」シネマライズ(渋谷)
14日(月)「チーズとうじ虫」UPLINK(渋谷)
16日(水)「約束の旅路」岩波ホール(神保町)
16日(水)「赤い文化住宅の初子」シネアミューズ(渋谷)
16日(水)「ザメッティ」セゾン渋谷
18日(金)「サン・ジャックへの道」シネスイッチ銀座
23日(水)「アポカリプト」★試写 よみうりホール(有楽町)
25日(金)「蟻の兵隊」キネカ大森(大森)
26日(土)「コマンダンテ」ユーロスペース(渋谷)
27日(日)「GOAL!2」ユナイッテッドシネマとしまえん
29日(火)「300」★試写 中野サンプラザ
30日(水)「パイレーツ・オブ・カリビアン~ワールドエンド~」ワーナーマイカル板橋


レンタル(4本)
「アマロ神父の罪」「ブエノスアイレスの夜」「ウェルカム!ヘブン」「ドット・ジ・アイ」


印象に残った作品
「サン・ジャックへの道」「300」

人生には、アホになれる時間が必要。


東京でHIPHOPクイーンになった女子高生・茜(榮倉奈々)は両親の離婚が原因で母の実家のある徳島県鳴門に引っ越してきた。しかしそこはHIPHOPとは無縁の場所で、高校には阿波踊りを踊るダンス部があるのみ。阿波踊りをバカにする茜は、阿波踊りに情熱を燃やすコージ(勝地涼)たちグループと反目しあうが・・・


バラバラだった生徒たちが一致団結して目的に向かって目指す青春ストーリーとしては典型的だ。山形が舞台となった「スウィングガールズ」なんかを思い出す。ベタといえばベタだけど、この映画では更に「阿波踊り」とHIPHOPの融合を図ることで、よりお互いを際立たせ、そもそもの踊る目的を掘り下げてくれる。


自ら楽しむことを忘れた踊りは、ハタから見ていても楽しくはなれないんだと思う。頭を真っ白にして、体を精一杯動かし、ハイになっていく。案外、日常生活でそういうことはできないものだ。お祭の踊りの由来を考えれば、宗教的な意味合いもあるのかも知れないけど、1年に1回くらいアホになって踊り狂いリセットするのは人間の知恵のような気がする。


「踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らにゃソンソン!」

形に囚われ踊る目的なんぞを小難しく考える若者たちより、回りの大人たちの方が突き抜けていたようだ。


ブログランキング に参加しています 

何を信じて生きていくか、が大事。


空港建設のために派遣された父(三浦友和)と馬酔村に共にやってきた亮介(神木隆之介)は、学校のクラスメート、公平(ささの友間)と仲良くなる。ふたりは、ハルヒ(大後寿々花)という少女がUFOの交信をしている場面と遭遇する。父を連れ去ったUFOをもう一度呼びたいとの願いからだった。


「UFOの存在を、君たちは信じる?信じるかどうかが問題なの。」
「信じてくれてありがとう」
これは、この映画をギュッと凝縮した言葉じゃないかな。


信じるということは、人を全面的に肯定すること。損とか得を超越して、無条件に受け入れられ愛されることは、どれほど心強いことだろう。


この映画に出てくる人間はとてもユニークなのだが、「何か」がなくて、どこか寂しそうだ。また、完全な家族形態というものがなく、どこか欠落している。出てくる子どもはみな片親だし、鳩が好きな赤星も弟をなくし、サワコは好きでもない男と家族になろうとする。


しかし、パーフェクトな状況ではないけれど、しかし、劇中、一人ひとりが見失っていた何かをそれなりに取り戻してゆく。まるで月が満ちるように。過去の記憶、故郷、友情、愛情、本当の自分・・・人はそうそう簡単に変わらないが、もし変われるならばそれは奇跡と呼べることなのかもしれない。それは満月の夜に起こるのだ。


また、空を飛ぶものとそれに憧れるものが登場する。冒頭のミツバチの話は象徴的だ。人工の翼をつけた青年や、鳩を飼う赤星、丘から飛び上がったヒハル、そして飛行機。大空を飛ぼうとする心が様々な形で表される。


キャストだが、3人の子役がやはりうまい。神木隆之介は、今、この時しかないと言うような、子どもと大人の中間の線上にある顔をしている。大後寿々花は、どこか大人びた雰囲気とその行動の不思議さのギャップが良い。そして、この映画を引っ張っているのは、公平役のささの友間だ。どこかおちゃらけていながら、実は繊細で、人の心を敏感に察する。名前のとおり、他の2人とをうまく結びつける潤滑油なのだ。公平を演じたささの友間は14歳ながら、味のある役者で存在感がある。


この映画は、監督が7年間温めてきたオリジナルストーリーであるという。子ども時代の一瞬を捉えた、一枚の写真のような映画。もう二度とは戻らないときをしみじみ感じさせる。


※上映終了後、舞台挨拶があったが、3人の子どもたちはみんなスラリと大きくなっていた。1年前の撮影時より10センチくらい高くなっていると言う。男の子は声も低くなっている。成長ってすごい。でも、壇上で3人がお互いを見やる表情なんかは、幼さが残っててかわいいです。


ブログランキング に参加しています 

閑静な高級住宅街。子どもを公園で遊ばせているマダムたちの輪の中に入ることを嫌悪しているサラ(ケイト・ウインスレット)は、司法試験勉強中の主夫ブラッド(パトリック・ウィルソン)と出会う。お互い、子どもの育児に追われる日常から逃れられないことに不満な2人は、いつしか惹かれあい、不倫関係に陥る。一方、幼い子どもにしか関心を持てず性犯罪を犯したロニー(ジャッキー・アール・ヘイリー)が、刑期を終えて帰ってきた。町は騒然となるが・・・。


印象的なシーンがある。
主婦の読書会で「ボヴァリー夫人」を「不倫に走っただらしない女」と評する人がいるなか、意見を求められたサラは、最初は理解しがたかったが、最近は夫人の満たされないものへの渇望と葛藤について理解できる、と言うところだ。


理解できるのは、サラ自身がそうだからだ。
しかし、サラにとっては自分らしく生きることが出来ない葛藤の果てがブラッドとの密会であっただけで、本気でブラッドを愛したわけではない。ブラッドも、閉塞した生活に光を求めただけで、それはサラではなくてスケートボードでもラグビーでもよかったのだ。ふたりは駆け落ちをしようと試みるも、結局は現実に戻る。逃避行に走らなかったことは、「大人」の選択だったのではないかと思う。でも・・・不倫関係そのものは、どんな言葉で取り繕ったとしても消し去ることはできないし、他人から「だらしない人間」と言われてもしょうがないのだ。


一方、ロニーは、自分自身の存在そのものが人を恐怖に陥れてしまう。自分の欲望を抑制できないロニーはある意味サラたちよりも「子ども」なのだ。自分を溺愛したあった母の「いい子でいるのよ」という言いつけは、ロニーが一生「子ども」のままであることを決定付けたようにも見える。彼は最後に「大人」になることを否定したかのようだ。また、ロニーを執拗に付けねらった元警官も、自分の不満を爆発させていたに過ぎなかった。


自分の押さえつけられた気持ちの捌け口として何かを求めた彼ら。現実に戻った人間もいれば、取り返しのつかないところまでいってしまった人間もいるということだ。


自分のしたいがままに振舞える「子ども」は、一見自由かもしれないが、周りを傷つけることもある。一方、本音を隠し、波風立てないようにうまくカモフラージュして生きてゆくのは「大人」の知恵ではないか?「大人になれよ」という言葉は、そういう意味でよく使われるものだ。


「子ども」と「大人」のどっちがいいということではないし、その間で揺れることは、決して悪いことではないのだと思う。でも、結局は「大人」にならないとこの社会は生きにくい。そんな現実を見た気がした。


ブログランキング に参加しています 




cats



※私はネタバレで文章を書いてるので、通常は試写会で事前に見た作品も、映画公開日以降にUPしています。しかし、このたびはブロガー試写会の趣旨と、監督と主役の舞台挨拶があったことを踏まえて、公開日は1か月くらい先ですがUPします。


ジミー・ツトム・ミリキタニ、80歳。日系アメリカ人の彼は、NYに住むホームレスで画家。生まれはカリフォルニア州のサクラメントだが、広島に住んだ経験もある。第2次世界大戦が始まったとき、彼は日本人だと言う理由で強制収容所に入れられ、アメリカ国籍を剥奪される。それ以後、彼はアメリカ政府を信頼せず、絵を描きながら平和と原爆の恐ろしさを訴えていた。


監督のリンダ・ハッテンドーフは、ミリキタニと一緒に暮らしていた経験を持つ。それは「2001年9月11日」以降の数か月間だ。


ミリキタニの目には、テロも戦争も同じように映った。そして、大戦のときの日本人に対するものと同じように、アラブ系アメリカ人の排斥に胸を痛める。この国は何も変わってないと。


アメリカ市民権を拒否し、「社会保険なんていらない。ほっといてくれ」と言い放つミリキタニに、リンダは根気よく申請するよう働きかける。私は不思議でたまらなかった。ミリキタニが拒絶したくなる気持ちも分かる。それが彼の意志なら、放っておくべきじゃないか?と。


それで、映画鑑賞後に舞台挨拶に立ったリンダ監督に直接質問した。彼女は答えた。「彼の失った60年間分の信頼を修復したかった」。


他人のために、どれだけの人がここまで出来るだろう?でも、彼女にとってミリキタニは家族同様の存在であり、年寄りだからと言って生活を諦めるようなことを認めなかった。幸せになるのに遅くはない。幸福を追求する権利、そして、アメリカと言う国を信じてる。


ミリキタニは、新しい住まいと仕事、そして仲間を得た。リンダのおかげで姉や親戚とも再会を果たす。


「もう怒ってはいない。ただ、記憶の中を通り過ぎるだけだ。」数十年ぶりに強制収容所を訪れたミリキタニは語る。憎しみと怒りに任せて過ごすには、人生は長すぎる。ミリキタニの反骨精神は、NYのホームレスと言う舞台から、別な新しい舞台で発揮されてゆく。舞台挨拶に立った86歳のミリキタニとリンダを観て、幸せな気持ちになった。


アメリカ、日本と言う国籍を超えて、人を信じたくなる。○○人であるかと言うのは、生きてゆくうえで必要ではない、そんな時が来れば、戦争もなくなるのではないか?と思う。


ブログランキング に参加しています