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no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

フランス映画「コーラス」を思い出させるような、すがすがしい物語。


ミルコは事故で目に深い傷を負い、視力がほとんどなくなってしまった。イタリアでは普通の小学校に行くことが許されなかったために、全寮制の盲学校に入ることになる。新しい環境、両親とはなれた生活、視力がなくなる恐怖・・・そのなかでミルコはとある「光」を見出す。実話に基く。


「ピアニストは、クライマックスでは目をつぶって弾くだろう?」「人間の5つの感覚のうちのひとつがないだけだ。」


映画だって、工夫があれば目が見えなくても堪能することが出来る。ミルコは自分の興味や関心を閉じることはなかった。ジュリアーノ神父は彼の世界の広がりに手助けをしてくれた。そしてミルコは後にサウンドデザイナーになる。自分は目が見えるけれど、もしかしてミルコよりもモノが見えていないかもしれないなと思う。


人生には何らかの出会いがある。人、もの、音楽、映画・・・盲目であろうとなかろうと、その未来と可能性は遮られるものではない。人生を限定する必要などないのだと思い知らされる。


明るすぎないイタリア映画。強烈な光ではないけれど、ミルコの見えるひかりのように、社会の影をそっと浮き彫りにさせている。


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魔法の靴に導かれて。


28歳のフリーライター明日香(内田有紀)は気がつくと精神病院の真っ白い部屋・クワイエットルームに身体拘束されて寝かされていた。閉鎖病棟で過ごすことに戸惑う明日香だが、恋人鉄雄(宮籐官九郎)と話していく中で、記憶にはない自分の行動が明らかになり・・・松尾スズキ脚本・監督。


★10月4日 ブロガー試写会にて鑑賞。ネタバレしてますので注意★


忙しすぎてストレスがたまり、とうとうキレてしまった。と言うのでは、どうもないようである。


この主人公はハタから見ればかなり波乱万丈。離婚、中絶、元ダンナの自殺、不眠、風俗、父親の死・・・
ある意味短絡的突発的な手法ではあるが、彼女はその場その場でなんとか凌いで生きてきた。他人に迷惑かけるつまんないやつにはなりたくない。めんどくさいやつと思われたくない。そう思うのは全うな考え方だと思う。けれど、その思いが強すぎて「つまらない、めんどくさい自分」を無意識に否定して無理をしてしまう。


明日香にとって病棟の住人たちは「めんどくさい」人間たち。過食症、拒食症、自傷癖・・・自分は彼女たちとは違う。何かの間違いでここにいるのだ。

しかし、覚えていない自分の行動が明らかになるにつれて、ふと自分はここにいるべくしているのだと思うようになる。自分も実は「めんどくさい」やつだと気づく。800字のコラムすら書けない自分。恋人にメーワクかけてる自分。面白くないなんて理由でダンナと別れた自分。生まれてくる子どもの未来を奪ってしまった自分。・・・


オズの魔法使いのドロシーが履いている魔法の靴がどこかへ導くように、明日香もまた導かれてクワイエットルームにやってきた。「めんどくさい」自分から逃げないで、自分自身と向き合い、まずは肯定すること。そうすれば、少し違った世界が見えてくるのではないか?


内田有紀は久しぶりの主演映画で新鮮。酒の飲みっぷりがすごい。缶ビールに缶チューハイ、何本飲んだんだろう?
キィパーソンは恋人役のクドカン。クセのある番組放送作家をしれっと演じてしまうのは彼ならではの技術とキャラなんだろうな。
閉鎖病棟の住人たちや看護師たちもキャラが立っている。「規則ですから」と繰り返すステンレスの心のような看護師を演じたりょうは適役。


しかし、どうも映画「ベロニカは死ぬことにした」と設定が似てる・・・。


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不自由になることの幸せ。


レストランの料理長・ケイト(キャサリン・ゼタ=ジョーンズ)は完璧主義で仕事の鬼。ところが姪のゾーイ(アビゲイル・ブレスリン)を引き取ることになり、扱いに困ってしまう。さらにレストランには新しいシェフ・ニック(アーロン・エッカート)がやってきてケイトの調子は狂いまくり・・・ドイツ映画「マーサの幸せレシピ」のハリウッド・リメイク。


大人になる、自活すると言うことは、自由を得ることでもある。
学校や親の庇護から離れれば、どこでどんな風に生きるかは個人で選ぶことが出来る。仕事はイヤになったら辞めることもできる。キライな人とは付き合わない。キライなものは食べない。お気に入りの環境に身をおける。


ただ、予想外のことや自分の思い通りにならないものができれば「不自由」になる。例えば、肉親。ケイトの場合も、姪のゾーイを引き取らなくてはならなくなったとき、「完璧な」生活スタイルは崩れる。ケイトは焦り、苛立ってしまう。


最近、「エディット・ピアフ」や「ミス・ポター」など実在の女性の生き様を描いた映画を続けて観ている。この作品も、一見、仕事一筋の女性が愛によって変化していくという王道のストーリーに見えるが、働く女性の生き方やプライドを考えると興味深い。


ケイトが頑なになるのはそこに至るまでの苦労を思えばこそなのだ。戦場のような厨房を取り仕切り、客のクレームにキレ、家に帰れば子どもに頭を悩ませる。そこに陽気でオペラを歌うイタリア料理人・ニックが現れ、いともカンタンに(ケイトには見える)料理長の座を脅かそうとするので防衛本能が働くのは当然と言えば当然のような気もする。


しかし、料理人の心を溶かしたのは「料理」だった。料理の楽しさ。味わうこと、味わってもらうことの喜び。それらを通して、ケイトは、ゾーイもニックもそれなりの苦労や悲しみを抱え、努力していることに気づく。それを見せるかどうか、どう行動するかは人それぞれなのだ。


誰かと生きてゆくということは、実は自分の思いとおりにならない人生を歩むことだ。他人に影響を与え、もしくは与えられてゆく。それを不自由と思うか幸せと思うかで、人生は違ったものに見えるのではないか?主人公は自分だけれど、誰が副主任(スー)になるかも案外大事。


まあ、これはフィクションということもあって、「エディット・ピアフ」や「ミス・ポター」と比べれば弱い。料理があんまりおいしそうに見えないんだよねー。ケイトやゾーイが変わって行くのもちょっと急ぎすぎ。


アーロン・エッカートは「サンキュー・スモーキング」で好きになった役者だが、甘さ加減とゆるさ加減が絶妙。ゾーイ役のアビゲイルも「可愛すぎない可愛らしさ」が好感持てる。キャサリン・ゼタ=ジョーンズはほとんどシックなパンツスタイルで髪をまとめ、本来のゴージャスな色気を極力抑えている。けど・・・私は「シカゴ」のキャサリンがカッコよくて好きだな。女性の魅力をフルに発揮してのし上がる強い女っていうのもステキ。


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その町の少年は皆、同じ髪型をしていた・・・


100年以上続いた町の伝統で、バーバー吉野のおばちゃん(もたいまさこ)は少年たちを「吉野ガリ」にしていた。ところが、転校生がやってきてから、少年たちは違う髪型にしてみたくなり・・・監督・脚本は萩上直子。


「何で吉野ガリにしなきゃいけないんですか?!」吉野ガリを命じられた転校生は周囲に詰め寄る。
100年続いた伝統と言うと、「なぜ」というのが皆分からなくなっている。みんなが同じ髪型なら悩むことも迷うこともなかった。共同体の外部からやってきた「異人」により、共同体の「ルール」が揺らぐ。そういうテーマは珍しくはないと思うが、その表現の仕方が突飛で面白い。


そういう「仕掛け」の中で繰り広げられるのは少年たちのみずみずしい青春。好きな女の子の話、秘密基地、Hな雑誌、家出、自由な髪型。頑固な大人たちや町の「規律」に対する反抗。一方、大人たちも立派なわけではない。理屈抜きで規律を押し通そうとする教師や理容師、吉野ガリの大人(バーバー吉野の婿)など、個性的な面々が並ぶ。大人だからと言って成熟しているわけではない。大人だからこそ、メランコリックになるときもある。


少年たちのコーラス、町のお祭・・・すべては「山の神」に捧げられるものだという。というか、訳のわからないものは神様のせいにしてしまっていたのかもしれないね。特に少年たちが聖歌隊の格好をして歌うハレルヤコーラスは必聴。ヘンデルのメサイアが、異郷の地において神々しく響きわたっているのも、突飛で可笑しい。


斬新ながらどこか懐かしさを感じるのが不思議。


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歌ってこそエディット。


本年度アカデミー賞の呼び声が早くも上がっている本作。時間軸を交錯しながら進むピアフの物語は、どこを切り取っても、壮絶な人生だ。


1915年にフランスの貧しい街で生まれた彼女は、47歳で生涯を終えた。どの生涯はいまだ謎に包まれているところもあるらしいが、この映画に映し出された姿は、「不幸」と呼ばれるものをほとんど経験してきたように見える。貧困、栄養失調、失明、子どもの死、飛行機事故による恋人の死、自動車事故、癌という病、モルヒネ中毒・・・そして時代はまさに「戦争」だ。酒をあおり歩くのもフラフラで、背中も曲がり、実年齢よりは老けて見えただろう。痩せぎすでピアフ(すずめ)とあだ名された彼女は、美しいと言う感じではない。


ひとつの山場は、ピアフが初めてホールで歌うときではなうだろうか。それまでは酒場で歌っていた彼女は緊張と恐怖で足がすくむ。大勢の聴衆が見つめる中、彼女はやっと歌いだした。しかし・・・我々映画をみている観客にはその歌声を聞かせてくれない!ただただ、彼女が懸命に歌う姿と聞き入る聴衆の顔を見せられる。そんなやり方があるんだろうかと感心してしまう。


そして物語はだれもが知る「最愛の恋人の死」の場面に行き当たる。「手に入らない男」を欲する気持ちはその絶頂で絶たれる。しかしそこも独特な描き方だ。夢のような曖昧な世界から覚醒したピアフの世界だ。


ピアフを演じたマリオン・コティヤールがすばらしい。若い娘時代から最期までをみごとに演じきった、渾身の技だ。彼女なくしてこの映画は成り立たなかっただろう。


どんな姿になっても彼女は歌うことを、舞台に立つことを諦めなかった。「歌ってこそエディットよ」と自ら鼓舞する。そこにはプロ意識というだけではない、歌がなければ生きていけないというほどの執念のを感じさせる。舞台に立つ彼女の背後から映すシーンが何度も出てくるが、その華奢な背中から何かがほとばしるようだ。いつも何かを追い求める情熱が歌に注がれる。しかし、皮肉にも手にしたものが失われるたびに、ますます思いが強くなる。やりきれない。


女性がとても生き難い時代。いつ娼婦として生活することになってもおかしくなかった。そんな状況だからこそ、女性は強くなれたのだろうか。強くならざるを得なかったのだろうか。


「あなたはパリの魂だわ。」親交のあったマレーネ・デートリッヒは、ピアフとともに動乱の時代を生きた戦友だったのかもしれない。


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