no movie no life -13ページ目

no movie no life

・・・映画を見て思ったことをツラツラと。ネタバレです。

かなり昔に書いたのも。

舞台は1950年代の朝鮮半島。南北朝鮮の対立に米国が絡み戦争が激化する中、人民軍、韓国軍、そして米軍の敵対する兵士たちが、「トンマッコル」という辺境の村で出会う。そこは戦いとは無縁の、自給自足の生活を営む理想郷のような場所だった・・・。


「子どものような純粋さ」と言う意味を持つトンマッコル。その住人の言動と戸惑う兵士たちのやりとりはとてもユーモラスだ。墜落する飛行機や雪のように舞い散るポップコーンの映像もファンタジー的で、全編に流れる久石譲の音楽の効果もあいまって、ジブリ作品を見ているような感覚に陥る。


しかし現実離れと言う印象を抱かせないのは、兵士たちの心の変遷の奥深さだ。軍という集団の目的のために個を切り捨てることを強制させられていた彼らが、徐々にその支配から自己を解き放ち、敵対しあうことをやめ、軍服を脱ぐに至る。南と北、朝鮮民族と外国人、トンマッコルの内と外。一方が一方を締め出そうとするならばひずみが起こるが、個が尊重され満たされれば、他者への攻撃は起きず、集団も健全に保たれる。村人をまとめる秘訣は何かと聞く兵士に、村長が「腹いっぱい食わすことだよ」と答えるのはまさに真理なのだ。



だが、やがてトンマッコルも戦争の脅威に晒される。兵士たちは、村の平穏を守るために、再び軍服をまとうことになる。平和を守るために武器を用いざるを得ない矛盾。花火のように美しい爆撃の哀しさ。殺しあうことの残酷な戦闘シーンを多用して恐怖心を煽る戦争映画とは異なり、ファンタジー的な映像の中に戦争の物悲しさと空虚さを滲ませた作品と言えるだろう。


韓国で記録的な動員を果たした本作。そのメッセージは、同じ民族で殺しあう哀しさにとどまらず、米国兵士とトンマッコルの少年に象徴される世界的な反戦メッセージがこめられているのだ。


幸せは追求するもの、と私たちは刷り込まれているのかもしれない。


「幸せになりたい。」不遇な子ども時代を過ごした故郷の気仙沼を離れ、大阪の下町に住む幸江(中谷美紀)。そんな幸江と一緒に暮らすのは、元ヤクザで特技はちゃぶ台返し!の男・イサオ(阿部寛)。働きもせず問題を起こしてばかりのイサオに振り回されながらも、懸命に働く幸江・・・果たして願い通り幸せになれるのか?原作は業田良家の同名4コマ漫画。堤幸彦監督作品。


幸せになりたいという願いは、「今はまだ幸せではない」ということが前提にある。主人公の幸江は、自分の不幸を数えて嘆く「自虐」癖があり、幸せでないなら生きてる意味がないとまで思う。


でも、今の社会は、幸せになることにあまりにとらわれすぎていないだろうか。書家・相田みつおは「しあわせは、いつも自分の心が決める」と語る。逆に言えば、不幸だと思えば不幸になってしまう。・・・もしかしたら、何が幸せで何が不幸せかなんて考えないで生きてゆけることが、実は幸せなことなのではないか。


幸江の「不幸っぷり」をコミカルに描く一方で、ある時点から結構マジメな展開になって、涙が。挿入される幸江の独白でうまく着地している。確かに幸江の人生は壮絶なんだけど、中学時代の友人・熊本さんやイサオがいるのはやっぱり幸せだと思うよね。降ってかかる不幸も、いつのまにか掴んでいる幸せも、みんなひっくるめて愛すべき人生だ。


さて、幸江役の中谷美紀だけど、やっぱり美人だしあまり薄幸そうに見えなかったなあ。むしろ中学生の幸江役の子がはまってた。キワモノ役での起用が多い阿部寛はさすが。無口な役なんでセリフも少ないけど、目は口ほどにものを言うとはこういうことなんだろう。あのちゃぶ台返し、もう一度見たい。


ブログランキング に参加しています 

自虐の詩 (上)/業田 良家
¥591
Amazon.co.jp

自虐の詩 (下)/業田 良家
¥591
Amazon.co.jp

日の当たる恋愛。


第1次世界大戦後のイギリス。戦争の負傷で半身不随になったチャタレー卿を介護する妻コンスタンスは、上流階級の暮らしをしながらも、閉塞的な満たされない思いでいた。ある日、邸宅の森番を務めるパーキンと出会ったコンスタンスは、夫にはないものを感じ、次第に2人は惹かれあって逝く・・・。原作はD・H・ロレンス「チャタレー夫人の恋人」。


原作には3つのバージョンがあると言う。世間で良く知られている「チャタレー夫人の恋人」は第3稿で、このたびは夫人と森番の関係を主体にした第2稿の映画化ということだ。物語の展開に必要な説明はト書きで補足的に行われ、それが主体でないことを感じさせる。


この映画は、対比に絞ったと言っていい。人の手を借りないと動けない夫と、働くパーキン。飾り立てた生活と森での素朴な生活。頭脳的な仕事と肉体労働。立派な邸宅と作業小屋。洗練と朴とつ。


チャタレー夫人が夫と森番の間で葛藤するかと思いきや、そうでもない。むしろ森を散歩したり、花を摘んだり、雨にぬれたり、そんな「自然」とかかわるような感覚のように見える。唐突って言うか・・・けったいな理由なんてないって言うか・・・そこがいかにもフランス映画!っていう感じ。(イギリスが舞台なんだけど、全編フランス語だし。)ちょっと遊んでて遅くなりました、と言うような感じで自宅に帰ってくる。夫以外の人と関係を持っているという罪悪感もそれほどない。ドロドロした感情も抱かないし、二人が絶対近くにいたいという執着もない(ような気がする)。タブーな恋愛は盛り上がるだろうが、タブーと思ってないから天真爛漫にすら見えてしまう。


だからドロドロ~を期待するとあれって肩透かし。切なく美しいロマンスを期待しても肩透かし。だって・・・まず森番のパーキンが美しくない。パーキンから「自分のどこが好きか」と聞かれて夫人は「体」と答えてるしね。いずれにせよ、「官能」を感じるには、牧歌的すぎたかな・・・。


ブログランキング に参加しています 

チャタレー夫人の恋人 (ちくま文庫)/D・H ロレンス
¥1,575
Amazon.co.jp

新訳 チャタレー夫人の恋人/D.H. ロレンス
¥2,625
Amazon.co.jp

konomichi1


涙の感動物語と言うよりは、社会派アニメではないかと思えた。


ロシアのとある孤児院。たくさんの親の居ない子どもが生活する中、ワーニャ(コーリャ・スピニドノフ)は幸運にもイタリア人夫妻にもらわれてゆくことが決まった。しかし、よそにもらわれていった友だちのママが、後になって迎えに来たのを見てから、自分もママと会いたいと思うようになる。ワーニャは必死で文字を覚え、孤児院を抜け出そうとするが・・・。実話をベースにした物語。


まず驚くのはロシアの孤児院。子どもの数の多さもさることながら、成長して行き場のない青年層が孤児院の傍らに住み着き、グループを形成していた。一人のボスが居て、役割があって、規律がある。どんな小さな子どもでも規律に従わねば罰が下される。各自が稼いだお金はひとつにまとめ、物資を買い、必要なら各自に分配される。まさに小さな社会主義国家なのである。


それゆえ、「子どもが子どもでいられない場所」でもあった。ワーニャの機転の利き方や頭の良さ、人を簡単に信じないという一面は、そんなところから由来している。大人っぽい仕草や眉をしかめる表情が垣間見える。ワーニャ役のコーリャ・スピニドフの演技はそれほど絶妙だ。・・・でも、それが物悲しさを誘うのである。


子どもの賢さと比較すれば、大人たちは間抜けている。ワーニャを追いかける養子縁組仲介業者のマダムの姿はこっけいだ。彼女はいわゆる悪役(ヒール)なわけだが、格好からするとどこか「ハウルの動く城」に出てくる魔女みたい。マダムの子分は、ちょっと間抜けだけどホントは人のいい男。小さくな子どもが困難な旅に出て、邪魔をする大人たちの追っ手をすり抜け、幸福を手に入れようとする。


社会派アニメに見えるのはまさにそこなのである。時として情熱的に、時としておかしく、時としてシニカルに。それにより、重苦しくなりがちなトーンをうまく中和させていると言えよう。


この物語は、孤児院の子どもが、母親に会うために独学で文字を覚え脱走したという実話がベースになっている。加えて、ロシアでは小さな子どもたちが日々街で仕事をして食いつないでるという現状があり、この映画の脚本ができあがったそうだ。劇中の孤児院の子どもたちはほとんどが実際にいる子だと言う。ロシアの抱える課題は大きいが、そんな状況でもたくましく生きる子どもたちに、小さな未来を託しているのだと思える。


ブログランキング に参加しています 


konomichi2


歌も踊りもおしゃれも大好き!ちょっと体型がBIGなトレーシー(ニッキー・ブロンスキー)はヘアスプレー会社がスポンサーであるショウ番組の出演を夢見る16歳。オーデションに参加したいと訴えるもこれまた「BIG」サイズの母親(ジョン・トラボルタ)は大反対。「おデブな人間には到底ムリなのよ。」・・・しかし憧れのアイドル、リンク(ザック・エフロン)からの誘いもあり、オーデンションへ参加、さらには「ミスヘアスプレー」にも挑戦することに・・・。


「世の中、痩せてるモノが勝ちなの。」昔、友人が言った言葉を思い出した。そういう感覚は、知らずのうちに私たちの頭にも刷り込まれているようだ。おデブなトレーシー、もう少しダイエットして痩せたらいいのに、なんて思ってしまう。ダイエットしてきれいになって人気モノになるというのは常套じゃないか。


でも、この映画はそうじゃない。トレーシーの何をも変えずに、恋愛もキャリアも成功に導く。何かに躓いたとき、うまくいかないとき、「自分が変わらなくちゃいけない」と思うのはよくある。でも、周りを変えることも重要なんだよね。人種差別にしたって、有色人種が悪いわけじゃない。差別する側が変わるために、何かアクションを起こすことが大事。


自分を変えると言うことは今の自分を否定することにもなる。トレーシーは卑屈にならない。根っからの明るさで、チャレンジする。母親は反対しても、父親は「やりたいことがあるならやってみるんだ。ここはアメリカだぞ。」と勇気を与える。体型を気にして長い間一歩も外に出なかった母親も、トレーシーに触発されて変わって行く。自己否定は他人否定に繋がるのと同様、自己肯定は他者を肯定することに繋がってゆく。


誰かと自分をいつも比べ、コンプレックスの塊となって卑屈になりがちな今の人間たちに、明るく自己肯定を提案するこの映画。それは、今の痩せすぎなハリウッド女優たちに向かって発せられているようにも見える。おデブな母親役は、トラボルタのCGではなく、実在の女優さんがやったらもっと説得力があったろうなあ。


ブログランキング に参加しています