許されたい。
そんな思いが存在しています。
道徳を実践できた時(もしくはそう思えた時)、自分は喜びを感じます。
例えば、人様の力になれたとか、正義を貫いたとか。
また、道徳を実践しなかったと思う時、自分を不快に思います。
例えば、妥協したとか、終始利己的だったとか。
そんな道徳の実践の元には、それをすれば許される気がするという想いがあります。
誰に何を許されたいのか、という対象はありません。
許しを請う相手や懺悔したい特定の行為はなく、ただなんとなしに、「これをしたから少しは許されるだろうか。」とか「どうか許してください。」というような言葉が思い浮かびます。
鼓舞したり空いた時間勉強したりするのも、(もちろん勝たせたい、もっと自分を高めたいという思いもあるものの)一生懸命生きてればその間は何か許されている気がするからとも言えます。
自分は将来のことを考えるのが苦手ですが、それもそうした中・長期視点というものが自分の中でなかなか道徳と結びつかないからという可能性があります。
中・長期的なアプローチはどうも許しを求めづらい感覚があるからなのかもしれません。
(もちろん、他にも影響を与えている要因はあると思いますが。)
自分のことをまだまだわかってあげれてない自分がいます。
特定の宗教や信仰を支持しているわけでもなく、そうした体験をしたこともありません。
なんでこんなにも許しを求めているのか、俺は何に許しを求めているのか、不思議に思います。
いつからか、許しを求めてる自分が静かに現れました。
もしご意見・感想ありましたら、ぜひ教えていただきたいです。
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